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調査結果については、別途、報告書をご覧いただくとして、訪問国に関する事前調査の段階で、前述の支倉常長や明治維新前後の先人による米欧先進諸国調査(遣欧使節)の事実や、そしてその調査結果が、その後の日本の進路決定に大きな影響を与え現在に至っているというすばらしい事実に触れるにつけ、それら先人のヨーロッパ調査旅行という舞台にできるだけ明るい照明を当てておき、私の旅行中、関係機関の訪問調査等でこれまた大変忙しくあわただしいスケジュールではあるが、少しでも余った時間を利用してその舞台を垣間見、また、肌で実感できればと思ったところである。

この度、その都度メモ等で残していたものを、一つの区切りとして、以下の通り参考までに取りまとめてみた。

 

3. 先人達の足跡

先人達の米欧での足跡を概観すると、次の通りである。

(1) 支倉常長

まず、私がメキシコ国アカプルコで出会った支倉常長について、それは先進国調査ではなかったが、その概略を見ることとする。

伊達政宗は、スペイン(メキシコ)との交易・通商についてスペイン国王と交渉するため、また、宣教師の派遣についてローマ法王に要請するため、使節として家臣支倉常長を選んだ。

「サン・ファン・バウティスタ号」は牡鹿郡月浦で建造され、1613年(慶長18年)10月、支倉はフランシスコ会士ルイス・ソテロを案内役として同船により同地を出発、翌1614年1月アカプルコ着。更に、スペイン艦隊に便乗し、日本人として初の大西洋横断をし(コロンブス大西洋横断から122年後)、スペインに入った。

マドリッドで国王フェリペ三世に謁し、次いでイタリアに渡り、1615年10月ローマに入り、教皇パウロ五世に謁した。

丁度その頃、日本における徳川家康のキリシタン迫害の報が届いていたためもあり、支倉の使命は果たされなかった。

支倉は、帰路、一旦フィリピンに渡り、1620年(文和6年)になって帰国している。

ここで、参考までに、当時の為政者のキリスト教に対する考え方をまとめてみると、次の通りである。

 

 

 

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