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西側地区においては、1949年5月8日議会評議会により「ドイツ連邦共和国基本法」が承認され、右は各州議会の承認を経て同年5月24日に発効。

他方、ソ連占領地域では、同年10月7日、「ドイツ民主共和国憲法」が発効。かくて、政治・社会制度を異にする東西二つのドイツが誕生した。

ロ ドイツの統一

西独は、自由、民主主義、市場経済を基礎とする国家体制を確立、EC、NATOに加盟し、西側の一員として順調な発展を遂げていったのに対し、東独は東欧の中では群を抜いた成長を遂げつつも、共産党による一党独裁、計画経済、西側社会との隔離政策のもと社会の硬直化が進み、右体制への市民の不満がふくれ上がっていったところ、ソ連・東欧での民主化の動き、1989年夏以降の東独国民のデモ及び西独への大量移住に起因する圧力等を背景に、同年11月9日、ベルリンの壁が事実上崩壊した。これを契機にドイツ統一への動きが急浮上した。90年3月18日の東独人民議会初の自由選挙の結果、早期統一を公約に掲げた東独CDU(キリスト教民主同盟)を中心とした大連立が成立したことにより統一への動きが加速化。

90年5月18日東西ドイツは「通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約」に調印。7月1日通貨・経済・社会同盟が発足し、東西ドイツは共通の通貨(西ドイツ・マルク)を持つ体制に移行した。

8月31日東西ドイツは統一へ向けた政治・社会制度の整備のため1]首都はベルリン2]東ドイツ地域への西ドイツ基本法(憲法)の拡大適用―などを規定した「ドイツ統一条約」に調印。9月12日米国、英国、フランス、ソ連の4大国と東西ドイツの6カ国外相は、統一ドイツを完全主権国家として国際的に承認する「ドイツ最終規定条約」に調印した。

10月3日西ドイツ基本法23条により、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツを編入する形で東西ドイツの統一が実現、41年間にわたる分断の歴史に終止符を打った。

ハ 首都問題

首都については統一条約でベルリンに決定され、同年12月2日の選挙を経て、全独連邦議会は91年6月20日、投票によって連邦議会所在地をベルリンに移転するよう決定した。政府も政府所在地問題につき検討を重ねた結果、同年12月11日、首相府、外務省、内務省、大蔵省、経済省等11省庁がベルリンへ移転し、その他はボンに残留となる案を決定し発表した。なお、移転時期については、1998年から2000年の間とされている。

(3) 外交

イ 西側との強固な関係

独(西独)の従来からの基本的な外交方針は、EC、NATOを軸として米を始め西側との強固な関係に立脚しつつ、旧ソ連を始めとする旧東欧諸国との間に友好・協力関係を発展させ、もって欧州及び独の分断の克服を達成することにあった。欧州における冷戦が終了した後の独統一に際しても、また、これが達成された後も、この基本方針は独及び欧州全体の安定的な発展を確保すべく継承されている。

 

 

 

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