これらのことから三河湾において、豊かな生物資源の永続的利用を可能にする"鍵"は「干潟・藻場を含む浅場の保全」にあるといっても過言ではない。しかし、近年の湾を取り巻く環境は上述のように、この"鍵"の維持が危倶される状況が持続しており、すでに三河湾においては浅場の喪失による悪影響が水質面で顕著となりつつある。
三河湾における赤潮や貧酸素水塊の発生状況を見ると、ともに1970年代から急速に発生頻度や規模が拡大している。この急速な悪化は同時期の埋め立てによる浅場の喪失と期を一にしている。このことは、埋め立てによる底生生物群集の膨大な喪失により、既にその時点で増加していた流入負荷による水中懸濁物質の増加を生物的に制御できなくなったためと理解するのが妥当であろう。底生生物群集がその摂食活動により内湾水中のプランクトン群集の構造や栄養塩濃度などを変化させ、湾全体の物質循環にも大きな影響を与えているという報告例がいくつかあるが、三河湾は皮肉にも環境悪化の面からそのことを実証しつつある例とも言える。
貧酸素水塊が、底生生物群集の著しい衰退をもたらすという報告は東京湾をはじめとして多い。しかし、貧酸素化のより大きな問題は、その結果として底泥と水中との物質収支が大きく変化し、流入負荷の増大と併せて水底質の悪化や内湾生態系の変化をさらに大きく加速しないかという点にある。仮に貧酸素化による底生生物群集の構造の変化が底泥と水中との物質収支を大きく変化させ、そのフラックスが流入負荷に対して無視できないとすれば、流入負荷の制御だけでCOD、TN、TP濃度の環境基準を達成することは困難となり、内湾環境を好適に維持するという行政目標が達成できない恐れが生じる。以下に示す三河湾における観測結果は、このような貧酸素水塊のもたらす極めて危険なフィードバック("負の連鎖")の可能性を示している。
三河湾浅海部において貧酸素化の進行過程と、それに伴う底生生物群集の変化を約50日間観測した結果を底生生態系モデルを利用し、底泥内の窒素循環および底泥と水中との物質収支を時系列で計算した。
計算結果を総括すると、貧酸素化により次のような現象が起こったと推測される。密度躍層上部に位置する浅場は、通常、貧酸素水塊の影響を受け難く二枚貝類を中心とした懸濁物食者や多毛類を中心とした堆積物食者により、海水中の有機懸濁物やそれらの沈降物の除去能力が高い。また、光が底面まで到達し、付着藻類や海草(藻)の生育によって無機態窒素の溶出が抑制されるため総窒素の除去能力も高く、高い水質浄化能力を有している。しかし、沖合底層の貧酸素化が潮汐流や吹送流によって浅場にも影響し始めると、まず、ろ過食性者による海水からの有機懸濁物の摂取や、水中からの沈降量と釣り合っていた堆積物食者による底泥デトリタスの摂取が低下する。ベントスによる摂食圧の消失は透明度の低下や有機物の底泥表面への堆積を促進し、付着藻類の生育阻害を誘引し、光合成による付着藻類へのNH4-Nの吸収も極めて少なくなる。堆積物内部の循環もバクテリアによる系のみが中心となる。しかし、その系もバクテリア現存量が低下することによって細くなり、底泥の悪化が促進される。バクテリアによる分解速度の低下に伴い堆積物から海水へのフラックスも減少するが、PONとDINとの差し引きでみたTN収支ではsink(除去)からsource(負荷)に大きく変化する。結果として、浅場は高い浄化の場から一転、負荷源に転じ、赤潮や貧酸素化に拍車をかける悪循環に陥ってしまう。