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2.2 政治・社会的背景

 

北極海航路啓開に関わるロシアのシベリア政策は、帝政期のピヨトル大帝のシベリア政策、革命以後ソ連体制における防衛戦略と社会主義統一国家体制整備を標榜してのシベリア政策を経て、経済的混乱と冷戦体制終結以後の共和国独立や自治州の自治権の拡大などの影響を受け、不透明な現状にある。

ソ連邦体制の変革の一つは、強固な結束を誇った連邦組織の崩壊にある。元々、1977年に制定された「ブレジネフ憲法」第72条によれば、ソ連邦は15の共和国が平等な権利を持つ諸民族の自由な意志による統合体であり、従って本来、各共和国は自由な連邦組織離脱権を持つものとされているが、実質上は、離脱は前提にされておらず、離脱に関する法制上の規定は一切なかった。

しかし、バルト3国の連邦離脱宣言を受けるに及んで、俄かに連邦組織の箍が緩み始め、国際社会における多極化傾向もあいまって、組織間関係に新しいドクトリンの採用が促された。1988年7月のワルシャワ条約機構首脳会議で、ゴルバチョフ書記長は従来の「ブレジネフ・ドクトリン」を否定し、ペレストロイカと一体となった新理念を展開した。これは、現代世界は社会主義、資本主義と言う体制の相違を超えて、経済、環境保護など広範囲な問題において相互依存の関係にあり、全人類的価値が全てに優先すると言うものであり、安全保障において重要なことは政治的方策であり、軍事的手段は防衛に十分な範囲の合理的充分性であればよく、国際関係の脱イデオロギー化を意図したものであった。

このような背景の下、ゴルバチョフ書記長は、1987年10月1日、ムルマンスクにおける演説で、北極海航路の国際商業航路としての開放宣言を行った。これは海域の完全な開放を意味するものではないが、冷戦構造の終結により、少なくとも北極海航路の大半が戦略的価値を失ったことを認めたことを表すものである。同時にブレジネフ政権の末期頃から顕著になった経済の長期低落傾向からの脱皮を急ぐ必要があり、その一環としての外貨準備高の増大策上、北極海航路開放宣言は当然の帰結でもあったとも言える。

ゴルバチョフ連邦大統領の提案によるソビエト主権共和国連邦の夢は、1991年8月のクーデターの失敗を契機として潰え去ると共に、クーデターの失敗は共和国の独立を加速させ、連邦権力と一体化していたソ連共産党を解体させることとなった。さらに、同年6月エリツィンがロシア共和国大統領に選出されるに及んで、エリツィン体制が急速に強化され、旧体制からの脱皮が促進された。

ロシアは、崩壊した連邦の最高政策決定機関に代わる機関として、連邦大統領と各共和国指導者によって構成される国家評議会を結成し、バルト3国の独立を承認することにより、新連邦条約の締結を進めたが、ウクライナによる政治同盟反対に脆くも新連邦体制は頓挫した。続いて、経済危機からの脱出と市場経済への移行を目指す経済共同体条約がグルジアを除く11カ国間で結ばれた。再度の新連邦条約締結に関するゴルバチョフ・エリツィン合意もウクライナの国民投票による連邦法失効宣言により無意味なものとなり、グルジアを除く共和国11カ国は独立国家共同体(Commonwealth of Independent States:CIS)の創設に調印した。このような政治的変化の大勢は変わらないものの、新体制への移行に対する擾乱の全てが沈静化した訳ではなく、今なお新たなる擾乱の火種が各所に残されている点が、円滑な北極海航路啓開に懸念を懐かせる。また、初めて民意によって選ばれたエリツィン大統領の中央集権確保のもくろみは地方主義の台頭の前に崩れ、1997年には行政府長官と呼ばれたロシアの州と地方知事の大半に対する大統領の任命権は失われ、全ての知事は住民による直接選挙によって選ばれることとなった。

 

 

 

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