この地方自治権の拡大は、NSRの啓開が関連地方にもたらすべき利益を明示することを要請し、その上で、関連地方に対して、NSRの前提でもあるインフラストラクチャー整備、沿岸環境保全などの問題に関して、計画のシナリオ、資金、実施機関、リスク請負機関等を明確にする必要がある。
2.3 経済・海運的背景
ペレストロイカやグラースノスチが氾濫する以前からロシア経済は破局的状態にあった。このため私企業の承認など新たな経済政策を採る必要に迫られた。企業のほぼ完全なる国家からの自立性を前提とする独立採算制と資金自己調達制、企業長選挙制などの経済改革は政治改革にまで踏み込まなければ実効が伴わないことの認識から、1987年の個人労働化活動法の実施、合弁企業法の施行、88年の協同組合法の採択など矢継ぎ早やの政策が講じられた。しかし、改革の進め方を巡る党内の確執は激しく、充分な経済効果を見る前に政治的混乱が先行し、ロシア経済は昏迷の度合いを深めた。
経済の混乱期には、いずれの国でも実経済の二重構造、地下経済が現れる。ロシアでは、ソ連体制時代の計画経済は、中央統制経済と称され、ソ連の経済活動は強力な中央集権政府が策定、実施する計画によって厳格に制御された。市場原理に基づく自由競争が行われる余地は殆どなく、地下経済は、旧統制経済のもとで常に蔑視され続けた商業・サービス・輸送・流通部門で主として成り立ち、政府視点では明らかに非合法な闇経済であった。しかし、市場経済への移行が連呼されるロシア連邦体制下では、犯罪の影のあるものは別として、地下経済は表面に浮上し、商業・サービス・輸送・流通部門は新しいロシア経済の中で、もっとも活況を呈する分野となる筈であった。
ロシア経済は、エリツィン大統領による性急な「ショック療法」経済政策が破綻し、1992、3年の諸生産の急激な落ち込み、1992〜96年間連続のマイナス成長、財政の極端な悪化、などの経済どん底状態に陥った。幸い、1995年鉄鋼、非鉄、石油化学の3つの工業生産部門が外需に支えられて回復し、経済には回復兆候が見られ、併せてインフレの鈍化、ルーブルの安定化の兆しもあり、政府が採択した「総合投資プログラム」の効果も勘案できる96年以降の経済復調に期待が集った。しかし、96年のプラス成長の見込みは外れ、ロシア経済の復調は程遠いとの印象を強める結果に終わった。これは、エリツィン経済政策の失敗の結果でもあるが、IMFの強力かつ執拗な勧告に縛られての国内財政・金融引き締め政策にも遠因がある。通貨供給量の厳しい抑制はインフレ改善には効果を見たものの、投資を減退させ、企業の生産活動を停留させると同時に、企業間債務を膨張させて信用不安を助長、労働者への賃金未払いを拡大させ、結果として企業からの税収を滞らせることとなった。また、大統領選挙を控えての人気取り・バラ撒き政策、チェチェン戦争関連の莫大な軍事支出が、経済復興の足並みを乱し、悪化させたことも否定できない。