初代局長はシビリアコフ(Sibiriyakov)調査隊のリーダーであったシュミット(Shmidt)が任ぜられ、更に、1941年には北極海航海で名を馳せたパパーニン(Ivan Papanin)が局長に任命された。NSR管理局の下、戦略的意図から民間機関の協力を当然とした探査や、航路啓開のための活動が重ねられ、この間、ディクソン(Dikson)、チクシ(Tiksi)、シュミット岬(Mys Shmidta)、プロビデニア(Provideniya)が開港した。砕氷船についても、スターリン(Stalin)級砕氷船4隻の新造があり、砕氷船に率いられる貨物船団も次第に増強されて、暫くは海上輸送量も増大の一途を辿った。しかし、やがて第2次大戦戦時体制でのNSR時代を迎え、軍と民間の作業区別が曖昧となる。1942年には、ウラジオストック(Vladivostok)からポリヤーニ(Polyarnyi)まで、ソ連海軍初めてのNSR航行が砕氷船の支援の下成功した。
ソ連体制下では、シベリア穀倉地帯の産物の輸送、木材等のシベリア原材料と西欧工業製品とのバーター貿易のため、これらが外貨依存に無縁であることから、政府はカラ海における輸送路の整備に深い関心を示した。
第2次大戦以降
第2次大戦下では、防衛戦略上、北東航路(北極海航路)全般の認識が高まり、タイミル(Taymyr)半島東部の戦略基点ヤクティア(Yakutia)では、約50%の資材が北極海航路により海上輸送された。1978年以降は、デュディンカ(Dudinka)、ムルマンスク(Murmansk)間の海上輸送は通年ベースに拡大され、イガルカ(Igarka)からのニッケルは重要貨物となっている。
第2次大戦下、商業航路啓開を意図したものではないが、ドイツの仮装巡洋艦コメント(Komet)のNSR通航や、米国からベーリング海峡経由でのシベリア北岸への戦時援助物資の輸送や、北極海域におけるソ連船支援に長期貸与された米国ウィンド(Wind)級砕氷船の活動などがあり、これらの船舶による航海実績、経験は、NSR啓開への参考資料となって役立てられている。
その後も、ソ連はNSR航行を積極的に行い、1972年12月から翌1月にかけては、7,430重量トンの砕氷貨物船インジギルガ号は、ムルマンスクからデュディンカまでを12日間で航行し、冬期のNSR航行の先鞭をつけた。ソ連体制下における北極海輸送は、いずれも戦略物資輸送あるいは戦略的輸送であるか、又は政府統制・管轄下の輸送であり、西欧側の商業航行の定義から見れば市場原理に即した海上輸送と考えることは難しいが、これらの航行実績が、北極海航路啓開への確かな基礎を築いてきたことには異論はあるまい。
ロシアによる明確な国益意識と国策に基づくNSR啓開の努力とこの地方の戦略的価値が認識される20世紀以前においては、NSR及び北極域探査は、大航海時代スペインの支配権からの独立と言う潜在的な意図から次第に明確な報酬のない国際競争に終始し、国家競争、個人の努力と野望、科学とが複雑に混在し、ナンセン、アムンゼン等は国家的英雄となり、欧州を基点とする探険史の最終章を飾っている。