ナンセン、アムンゼンの功績
近世北極海航海史において、ヴェガ号のノルデンショルドと並び称される航海にフラム(Fram)号によるナンセン(Fridtjof Nansen)の航海が挙げられよう。NSR啓開の歴史の中では、ナンセンの航海意図が科学調査であったことからしばしば軽く扱われるが、航路の啓開は航路上の自然環境の理解、把握が前提であることを考えれば、ナンセンの果たした役割は間接的、基礎的ではあれ極めて重い。彼の漂流観測の発想や北極海での漂流を前提とした船の設計建造法など、そのコンセプトは現在なお生き続け、学術面では現在に至る北極圏研究の礎を築いた。
なお、北西航路については、ノルウェー生まれのアムンゼンが、1901年グリーランド北西岸への言わば準備航海の後、同じユア(Gjoa)号により、1903〜1905年、3年の歳月をかけて北西航路を完遂している。最初の南極点到達者でもあるアムンゼンは、ヴェガ号による北東航路完成に感激し、ナンセンの極地探検に胸躍らせ、生涯、北西航路啓開に情熱を傾けたと言われる。
2.1.3 ロシア革命以後
革命初期
ロシア革命期においても、シベリアと西欧諸国との交易の道としてのカラ海の啓開を試みたコルチャク(Kolchak)提督の努力があり、ピヨトル大帝の意思は、革命以後も継承されたが、シベリア横断鉄道建設のための資材輸送と絡めて、NSRの啓開は次第に戦略的背景を色濃くしていく。
1930年代はNSRにとって記念すべき出来事が続いた年代である。1932年には商船隊Soviet Pacific Fleetが1933年にはNorthern Naval Fleetがコラ半島に編成され、日露戦争での苦い経験も手伝ってNSRの戦略的意義は一段と高まった。国際極地年の1932年には、国際科学観測プロジェクト事業として、小型砕氷船シビリヤコフ(Aleksander Sibiriyakov)号が、NSRを西から東へ完航した。この航海では、アルハンゲリスクを7月に出港後、一夏でウラジオストックに到達、続いて11月には日本にも寄港、ヴェガ号の航海日数を3分の1に短縮した。また、1934年には、砕氷船フェドール・リッケ(Fedor Litke)号が初めて苦難の出来事なしにNSRを一季にて完航し、続いて翌1935年には、ヴァンツェッティ(Vantsetti)号、イスクラ(Iskra)号が砕氷船リッケ号の支援の下、貨物船として初めてNSRの東航に成功した。
NSR管理局の設立
NSRの行政、管理については、1932年12月、国益を守る目的を以ってNSR管理局(Glavsevmorput)が設立され、NSR全域の開発、管理管制、保全を所轄することとなった。