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イヌイト等の北極圏先住民と遭遇した最初の欧州人でもあるヴァイキングによる北極海航路啓開への貢献は、測り得ないものがあるが、功罪半ばするとの異論もある。ヴァイキングが殆ど文献記録を残さず、彼等の貴重な航海経験が殆ど後世に継承されなかったこと、極寒の地に僅かに定着していた先住民を根絶させたことも少なくなかったからである。

 

鯨を追っての探査

14世紀に入ると、ヴァイキングに代わって新しい航路啓開貢献者が現れる。ビスケイ(Biscay)湾を基地とするバスク人は、鯨を求めて北へ北へと活動の場を広げ、ニューファンドランドを再発見し、霧深きラプラドール沖での操業を行った。次にこの海域に現れたのは、オランダおよび英国の捕鯨業者である。以後しばらく、彼らは、業界生き残りを賭けて、鯨油と鯨髭(baleen)を大量に獲得し得る豊かな捕鯨漁場を求めて、北の海での熾烈な新漁場発見競争を展開した。その結果として、鯨資源の枯渇と引き換えに、北極海の知識情報は急速に調えられることとなった。

北の海への意図的な航海は、漁労、即ち水産資源を求めることから始まり、やがてこれに海生哺乳動物やトナカイの狩猟が加わり、その量も自活的な段階から、物々交換や交易を前提としたものへ、更には貿易意図を明白にしたものへと次第に拡大した。

 

大航海時代の航海術

16世紀頃の航海に用いられた主たる航行用器具は、羅針盤(コンパス)と天測儀(アストロラーベ)である。経度の決定については、測程線(ログ・ライン)と自船の推定速度から判断する推測航法による近似値に頼らざるを得ない状況にあった。緯度は、アストロラーベによってかなり正確に求められ、観測に際して一年中の太陽赤緯表があれば、十字桿(クロス・スタフ)を用いてさらに正確な値を知ることができた。このような太陽の角度による位置決定は、かなり古くから行なわれ、赤緯表はアラビア人によって算定されていたと言われている。この表は、13世紀半ばカスティーリアのアルフォンソ10世賢明王によってキリスト教国に伝えられ、「アルフォンソの表」として知られている。

 

ポルトラーノ海図

現存する最古のものは、1300年代からであるが、その完成度が高いことから、幾世代もの間、描きつづけ修正されつづけられたものと言われている。ノーマル・ポルトラーノと称されるものは、ヴエラム紙に色インクで描かれた美麗なものである。地中海、黒海、西ヨーロッパ、北アフリカ大西洋岸線などが描かれているが大陸内陸細部については殆ど白紙状態である。

 

手書き海図

新たな資源を求めて航海海域は拡大し、船体そのものばかりでなく、船上の生活様式にも氷の海への航海を意識した様々な工夫が図られ、航海術にも航海経験に基づく進歩が見られるようになった。この時代に航海実務者によって作られた手書き地図は、大航海時代の地図製作術の基盤となった。手書き地図の作成術については、中世の「ポルトラーノ海図」まで遡る。その起源を遥かな古代に発するポルトラーノ海図は、プトレマイオス的考えや中世権威の象徴でもある「世界全図」の因襲に囚われた初期の印刷地図より、遥かに以前からより正確な情報を船乗りに提供し、北の海の航海者に対しても大きな影響を与えた。

 

 

 

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