私自身は、この研修に来るまでは、自分は患者と常に対等な関係として意識していると考えており、このような考え方が医療者としての驕り以外の何ものでもないということには全く気づいておりませんでした。そして、今のこの考えも、自己の一方的な見解であり、正しいものとして考えてしまうことは、再度見解を狭める原因になると考えています。このことは本当に衝撃でした。自分自身の驕りと、それに気づかない自分という存在。こんな自分が看護者として仕事を行っていて良いのであろうかと、自分自身の未熟性に辛くなったこともありました。しかし、この研修の中で、見解の狭い自分に気づくと同時に、人間は死ぬまで成長しつづける存在として捉えることができ、自分自身に対しても常に成長していく存在であると、人間の可能性を考えることができるようになりました。今後、ゆっくりのぺ一スであっても、自分自身が人間として、看護者として成長し、より良いケアを提供するという新たな目標ができました。
次に、人間により良いケアを提供する上で、チームとしての存在の大切さを痛感しました。24時間、必要なときに必要なケアが提供できる継続性や、共通の目標に対してそれぞれの専門的な知識を共有することによる高度なケアの提供が、チームという存在によって支えられていることに気づかせていただきました。一人ひとりの力は、集結すると2倍になるのではなく、何倍にもなり得るのだと感じています。
このようなことを身をもって学ばせていただいたのが、実習でした。私は今回、財団法人ライフプランニングセンター・ピースハウスで学ばせていただくこととなりました。そこで出会った患者は、告知を受けてからずっと死への不安を抱きながら生活をしてきて、生きることの最後に今何ができるか考え、夫への感謝の言葉と妻としての役割を最後に果たせなかったことに対する謝罪の言葉を伝えることを望んだ患者でした。そこで見た看護者は、患者の人生は自分で見出すものであり、看護者が人生に口出しをするのではなく、患者が見出し選択した人生の在り方を、側で支援していく存在でした。私も、それとともに患者や家族の表現を受け止め、その意思を最優先することを第一義とし、それが実行できるよう身体や物理的な環境を整えるようケアを提供してきました。このような中で、患者は夫に感謝と謝罪の言葉を伝え、夫や兄弟に見守られ、愛情のある言葉を受けながら亡くなることになりました。これは、すべて患者のケアに携わったチームが、患者の人生における患者自身の意思の重要性を考え、尊重し関わったこと、そして、チームという継続的で専門性が集約された存在として関わったことが、このような結果として表れたのではないかと考えています。
そしてもう一人、日常生活援助を受けることに対して拒否的な患者を担当させていただきました。そのケアの中から、自律した人間としての相手の決定を、私の看護者としての価値観との相違はあっても、受け入れていくことの大切さを学びました。例えば、私にとって入浴や清拭等で清潔に保つことは、感染予防や体循環、精神的な快適さを保つ上で必要と考えることでも、患者がそのリスクもすべて知った上で行わない、と決定したことならば、その決定をも一旦受け入れることが患者の自己決定を支えることの一つであると学びました。そして、そのような患者の考えも様々に変化していくものであり、その決定が行われた背景を考えながら、それを患者のぺ一スに合わせて待つことが必要であると学びました。
研修で学んだこと、今後の展望
この二人の患者を担当させていただいた中で、ケアチームの重要性や自律した人間をケアするということの意味を痛感しました。このことは、今後自施設での緩和ケア病棟で是非とも取り入れなければならない重要な課題であると考えています。