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2 海洋の国際秩序

 

(1) 国際海洋法の基本構造の変化

 

“海洋の自由”回想

海洋は地球面積の約71%を占めている。人類と海洋の関わりは古い。灌漑農耕の世界から発祥したメソポタミア、エジプトの古代文明は、シュメール人やフェニキア商人による活発な地中海交易との関連の中で発展していった。インド古代帝国もインド洋を舞台に展開したドラヴィダの通商活動に支えられていた。中国古代帝国の発展は「絹の道」と共に栄えた「百越の海人」の活動なくしては語れない。日本においても縄文の遺跡の中に海上活動の証しがあり、卑弥呼の時代には、魏史倭人伝にも記されているように、漁業が盛んで「水行十日」以上の海上交通路も開けていた。「海幸、山幸」の神話もうなずける。

しかし、いわゆる中世までの間、海洋は文明圏を形作る外輪でしかなかった。

15世紀にいたり、オスマントルコの隆盛がヨーロッパの陸路によるオリエントとの交易を妨げるようになると、ルネサンスの活力が大航海時代を幕開けさせる。文明の周縁部として位置づけられていた海洋の性格は一変した。アメリカ大陸が発見され、希望峰を回ってヨーロッパとインド・アジアが結ばれ、太平洋航路が開けて地球が一つの世界となった。

海洋国家による地球規模の商業活動が展開され、植民地争奪の時代となる。

大航海時代の始まる以前、地中海について見れば、ローマ法が海洋を全ての人の共有物と見做していたがため、その利用は原則として自由であった。しかし、地中海に横行する海賊に対処するため、イタリアの都市国家の中には、特定の海域に自国の管轄権を主張し、その権限の下に海賊の取締に当たるようになった。特定の海域とは、具体的には当時の航程2日間の100マイルで、そこに国王の排他的管轄権が認められた。しかし当時は、土地を媒体とした封建制度の下にあり、領海の発想は生まれてこない。

大航海時代に入り、新たな航路と地理上の発見が続くと、スペインとポルトガルによる「海洋分割」が始まる。1493年にローマ法皇アレクサンドル六世が仲介してなされた分割は「法皇の大教書」として示され、大西洋のほぼ中央に南北の境界線をもうけて東西それぞれで発見される陸地の領有権と独占的通商権を認めるものであった。

17世紀に入ると、台頭してきたイギリスとオランダとの間で海洋の利用を巡る対立が生じる。イギリスは1609年「漁業宣言」を発して、イギリス近海でのオランダ漁船の操業を禁じるとともに、1625年にはイギリス海の領有を主張し、海軍力をもってその実効支配を試みようとした。これに対してオランダは、グロチウスの著書「自由海論」に述べられる「海洋自由の原則」をもって海洋先進国による海洋領有の試みを批判した。イギリスはセルデンの「閉鎖海論」をもって自国の主張を擁護するが、時代は次第に、重商主義、通商主義の強まりをみせてゆき、国際通商の場としての海洋の解放が共通の利益となる中、“狭い領海と広い公海”、“公海の自由”が国際慣習法化されていくこととなる。

 

 

 

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