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海賊行為の現状

 

アロンドラ・レインボー号(以下、「レインボー号」)は井村汽船所有の七七六二トンの貨物船。十七人の乗組員のうち十五人はフィリピン人で、日本人は船長と機関長の二人だけであった。レインボー号はアルミ塊約七千トンを積んで昨年十月二十二日夜、福岡県三池港に向けスマトラ島のクアラタンジュン港を出港したが、その僅か二時間半後に襲撃を受けた。拳銃と刀で武装した十数人の集団がフック付きのロープを投げ入れ、よじ登ったらしい。高速艇を使い、暗闇の中を奇襲したのだ。海賊は真っ先に操舵室と救難信号発信装置を制圧し、乗組員を後ろ手に縛り上げ、目隠しをした上で全員を一個所に監禁した。乗っ取られたレインボー号は目的地と反対方向に航行しはじめた。翌朝、乗組員はどこからともなく現れ横付けしてきた千五百-二千トンぐらいの老朽貨物船に移されたが、この船には十人ほどの男が乗っていた。乗組員は目隠しをされ後ろ手に縛られたまま狭い船室に六日間監禁された。その間に、レインボー号は積み荷ごとどこかへ消えてしまった。

十月二十九日早朝、海賊は十七人全員を救命用ゴムボート一隻に乗せ、たった一日分の水と食糧を与えただけで「好きなところへ行け」と放置した。ゴムボートの中は狭いため身動きもできず、十七人は現在位置も判らぬまま十一日間も漂流し、幸いにもタイ国プーケット島の南方で、偶然通りかかったタイ漁船に助けられた。レインボー号からの連絡は途絶えていたが、船主が海事保険会社経由で海賊報告センターに第一報を伝えたのは事件発生から四日も経ってのことで、海上保安庁が知ったのは、その翌日、同庁がヘリ搭載巡視船一隻と捜索用ジェット機一機のマレーシア東方海域派遣を決定したのは同日夜のことであった。 行方不明となったレインボー号の捜索が始まった。海上保安庁や日本船主協会が沿岸 各国に情報提供を呼びかけ、IMBからは捜索警報が出された。十一月十三日昼、インド南端沖を航行中の船が行方不明船に酷似した船を目撃した。現場に向ったインド沿岸警備隊はその船を発見したが、無線による船名、船籍、目的地などの問い合わせに対してでたらめな返答をするばかりか、停船命令を無視し、速度を上げて逃走を図った。そこでインド海軍も加わり、艦船三隻、航空機二機による追跡が始まった。

十六日午前、インド・ゴア州の西約四百三十キロの地点で追跡部隊は同船の機関室部分を射撃し、強制的に停船させて武装隊員を乗り込ませ、乗り組んでいたインドネシア人十五人を拘束した。この時、海賊は抵抗しなかったが、親玉は証拠隠滅のため船に放火し、船底のバルブを開かせて船を沈没させようとした。そのため、長時間にわたる消火作業、排水作業で沈没を防がねばならなかった。調べてみると、船腹にはメガ・ラマ号と書いてあったが、船内でレインボー号の書類が発見されたことで、インド当局はその船をレインボー号と断定した。逮捕された海賊の自供によれば、彼らはマニラで燃料と水を補給したという。積み荷の約半分を別の船に移し、船名をメガ・ラマと塗り変えた上で残りのアルミ塊を積みアラブ首長国連邦(UAE)に向う途中にインド当局に逮捕されたのだった。船舶を襲って乗組員や乗客をためらわずに殺傷し、金品や積み荷のみならず船までも強奪、あるいは政治的要求のため人質をとって船を奪う手口(シージャック)が増加したのは八○年代の後半であるが、日本船舶がシージャックに巻き込まれるようになったのは、九八年九月に発生した桝本汽船の貨物船テンユウ号(二六六○トン)が初めてのケースである。

このテンユウ号とレインボー号の二つのケースは、いずれの事件も海賊の逮捕、あるいはその寸前まで行った希有な例で、両事件は、結末を除けば類似点が多い。テンユウ号事件とはこういうものだった。クアラタンジュン港からアルミ塊約三千トンを積んで韓国の仁川に向けて出港したテンユウ号は、出港翌日に行方不明となり、三か月後に中国の揚子江上流で発見された。

 

 

 

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