○住民と行政の2本立てで
彼は町の有力者を回り、話し合い、「まず足助の町並みを守る会をつくり、住民と行政の2本立てで行くべきだ。」と結論に達した。中部区長会長の中村正成の名前で町並み保存運動展開のための集会が呼びかけられ、約30名ほどが集まり、「足助の町並みを守る会」が結成された。
○田口金八氏の登場
会長には以前、町の教育長を9年余り勤めた、町内切っての人望家である田口金八が選ばれた。
昭和51年〜:保存運動の展開と町並み調査
○「足助の町並みを守る会」のスタート
この「足助の町並みを守る会」は会の規約や組織などが充分に確立されていないまま、直ちに活動に入った。翌51年1月に役員会を開き、会則、役員構成、会費年額500年等を定めた。この役員会の役員、田口金八、中村正成、水野五郎、近藤純の4名が町並みを守る会の推進力となった。足助の町並み保存運動は、小沢庄一を核とする行政と、住民側の守る会が混然一体となって活動を展開していく。
町並みを守る会会長、中部地区長会長、足助町商工会長の連名で2月にはチラシを配り、加入勧誘を行った。その結果、6月には会員数は248名とった。
○町外からの意見
外部との橋渡しとなる朝日新聞社記者、石川忠臣氏が足助を訪れたり、視察や調査に訪れる建築関係の学者や専門家の数は急速に増え、学者を招いて懇談会を開催したりと町内中心の活動から外部の意見も取り入れてさらに活発な運動となっていく。
○名古屋大学による調査
昭和51年、名古屋大学建築学科教室が中心となって足助の町並みを調査することになった。調査は足助の住民の町並みに対する意識調査と建物調査の2方向から行われた。この結果は「足助町町並調査概報」としてまとめられた。また博物館明治村学芸員松波秀子女史も、この調査から足助の町並み保存に関係するようになり、今後も長期に渡り保存運動に力を入れている。
○矢澤長介氏の参加
町並み保存運動に対応する行政側の体制は昭和52年になると、それまで小沢庄一氏を核とする産業観光課に加えて、町教育委員会が加わる。担当したのは社会教育係の矢澤長介氏である。町の教育委員会は足助の町並み保存対策協議会委員を委嘱して、協議会を発足させた。協議会には大学教授を座長に県教育委員会、町の教育委員会、企画課、観光課、町並みを守る会、商工会などのメンバーが名前を連ねた。
○文献「足助の町並」の完成
協議会の結果、足助の町並みの保存計画策定のための基礎資料を得ることを目的とした、いわゆる文化庁の調査を国庫および愛知県の補助金を受けて行うこととなった。その結果は「足助の町並」に報告されている。
○全国町並みゼミの開催
守る会は全国町並み保存連盟に全国で6番目に加盟し、昭和53年には第1回町並みゼミを有松(名古屋市)と共同開催した。