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「明日の由布院を考える会」の中心的メンバーだったのは、旅館の若手経営者、志手康二(三角屋、故人)、溝口薫平(玉の湯)、中谷健太郎(亀の井別荘)ら3氏であった。彼らは皆、一度は町を出て東京で働いていたが、1960年以降次々と湯布院に帰郷したもので、まだ20代後半と若かった。彼らは商工会や観光協会、旅館組合にも所属していたことから、町内横断的な組織として積極的に活動し、大型別荘開発をめぐる自然環境保護条例制定運動(1972年)、サファリパーク進出阻止運動(1973年)など、以降のまちづくり運動において果たす役割が大きかった。同会は5年間の活動を経て発展的に解消し、個々のメンバーは連携しながら、その後もまちづくりへの関与を続けていった。

 

欧州視察と温泉保養地構想

志手、溝口、中谷の3氏は、岩男町長の西ドイツ視察に啓発され、1971年、50日間にわたって、私費でヨーロッパの観光地、温泉保養地の視察を行った。この視察は3人に大きな感銘を与え、帰国後、観光協会や議会、行政にクアオルト(Kurort、温泉保養地)構想の推進を訴えていくことになる。この構想とは、単なる観光地化ではなく、温泉、文化、自然などの住民の生活環境を整えたうえで、湯布院なりの保養温泉地を形成していくというものであった。1978年には官民合同の30人による西ドイツ視察が実現。同構想の実現に向け、官民一体となった取り組みが本格化する。

そして由布院温泉は、近在する別府温泉が持つ歓楽性、非日常性とは別の道を歩み始めた。その目指すものは、小グループや女性客をターゲットとし、大型施設よりもホスピタリティーをモットーとした、文化的な香り漂う温泉まちの形成であった。

 

1970〜1980年代:住民参画期

全国への情報発信

1975年、50億円の被害を出した大分中部大地震による「湯布院壊滅」の風害を乗り越えるべく、由布院温泉観光協会(専務理事 中谷氏)が「ゆふいん情報発信運動」を展開する。さらに同年には中谷氏らを中心とする実行委員会によって「ゆふいん音楽祭」、「牛喰い絶叫大会」、翌1976年には「湯布院映画祭」がスタートする。これらのイベントは県外からも大きな集客を誇り、湯布院の知名度向上に大きく貢献しており、現在では、1月、2月、6月を除く毎月、何らかのイベントが行われている。

住民参加

1976年「湯布院シンポジウム・この町に子供は残るか」、1982年「保養温泉館構想のための100日シンポジウム」など、まちづくりの節目においては、「明日の由布院を考える会」のメンバーを中心として、住民による積極的なまちづくりへの参加が行われてきた。

 

1980〜1990年代:まちづくり持続期

建築・環境デザインへの取り組み

1985年、リゾート開発の波から湯布院の持つ本来の景観を守るため、商工会が町に対して環境デザイン会議の設置を要請する運動を展開。1988年には「湯布院町環境デザイン会議」が設置された。これらの運動が、土地利用、建築行為を規制する「潤いのある町づくり条例」(1990年)につながったと言える。

また、観光協会では、独自に建築・環境デザインガイドブック(1998年)を作成しており、湯の坪地区においては、街並みに配慮した改築を自発的に行う住民の動きも見られつつある。

まちづくり組織の拡充

由布院温泉の観光まちづくりを強化するために、1990年、由布院温泉観光総合事務所が設立された。

 

 

 

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