日本財団 図書館


4) まちづくりの沿革

1920〜1930年代:黎明期

寒村と小さな温泉地

大正末期から昭和初期にかけて、由布院温泉には20軒ほどの旅館、別荘があったが、産業的には農業中心の寒村であった。ただ、大衆的な別府温泉とは対照的に知識人、文化人の逗留が多く、文化サロン的な利用が見られた。

 

図表 由布院温泉の旅館数推移

045-1.gif

出所) 湯布院温泉観光客数及び旅館数調査

 

1940〜1950年代:混迷期

米軍駐留とダム計画

戦後から朝鮮戦争(1950年〜1953年)にかけて、旧由布院町には米軍が大挙駐留した。

「兵隊景気」と言われたように、闇物資の取引や売春などで町はにわかに活気づいていたが、朝鮮戦争の終結とともに米軍は引き上げ、残された町には経済的な危機感が色濃く漂い始めていた。

また、1952年には、町の中心部である由布院盆地をダム化する計画が持ち上がった。痩せた土地と牛も入れない湿田地帯を抱え農業もままならぬ貧しい町だったことや、前述の社会背景もあり、当時の町執行部は計画推進の立場をとり、議会もそれに同調した。しかし、町の身売りとも呼ぶべきこの計画については賛否両論が巻き起こり、特に、町青年団は反対の急先鋒となり、強力な反対行動を行い、結局、ダム計画は廃止になった。

 

1950〜1960年代:まちづくり見直し期

町村合併と新しいまちづくりのスタート

1955年、由布院町と湯平村が合併し湯布院町が誕生。町の青年団長としてダム計画反対運動をリードしてきた36歳の医師、岩男頴一氏が初代湯布院町長となった。彼のまちづくりのコンセプトは、産業・温泉・自然を統合し、ダイナミックに機能させてゆくというものであった。

また、岩男町長は、社会教育と公民館活動の振興を全面に掲げ、住民主体の民主的なまちづくりを積極的に推進した。

 

1960〜1970年代:リーダーシップ形成期

まちづくり住民運動の組織化

1970年、湿原へのゴルフ場計画に反対するために「由布院の自然を守る会」(事務局長 中谷氏)が住民主体で組織され、自然保護を訴える幅広い活動を展開、ゴルフ場建設は中止となった。その運動のなかで町づくり雑誌「花水樹」(編集長 中谷氏)が刊行された。これは1971年に発足した「明日の由布院を考える会」(事務局長 溝口氏、企画部長 中谷氏)のメンバーに編集が引き継がれ、1973年までに9冊が刊行。町づくりの議論と運動を記録し、人々に伝えた意義は大きい。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION