翌年には町議会も建設反対を決議、「灰塚ダム建設反対同盟会」が結成され、以後これが反対運動の核となった。この運動には熊本県阿蘇郡小国町でおこった下笙(しもうけ)ダム闘争が手本とされたというが、その頃から急速に進んだ過疎化もあって、反対運動は下笙ダムほどに過激化することはなかった。また反対の動きのなかにも打開策が講じられ、1984年(昭和59年)8月、建設省と灰塚ダム建設反対同盟会が、この年の実施計画調査確認書に調印する。反対運動の終息である。2ヶ月後現地調査が開始され、翌85年7月、反対同盟会は、「灰塚ダム建設対策同盟会」と改称し、以後、関係者の生活再建対策に当ることになる。その後の経過は省略するが、反対運動のなかで得た交渉の技術、問題解決のノウハウが生かされ、ダム建設に着手する前に生活再建のめどを立てたあと補償に関する基本的な取り決めをするという、「灰塚方式」と呼ばれるダム補償に新しい方法も打ち出されている。なおダムの建設によって水没する面積は410ha、水没戸数は3町合わせて332戸である。
3. アースワーク(Earth works)プロジェクト
三良坂町の灰塚に建設されるダムは、その上流の上下川や田総川をせき止めるために、水没地域は三良坂町はもとより吉舎町・総領町の三町にまたがることになる。そこで三町の総合的な事業として推進されることになったが、早くも1989年(平成元年)には灰塚地区の生活再建地事業が発足、追って91年にも総領町稲草(田総の里)・吉舎町安田(ひまわり)の生活再建地事業が発足、それらは93年10月に開村した「のぞみが丘」(三良坂町)をはじめ次々と造成され、水没住民たちの新しい生活の場として再生された。