「ノー」という身体:
関係的バウンドリーがなくて、機能的バウンドリーがあるとします。そうすると、頼まれたらどんどんやってしまいます。関係的バウンドリーがないと、「ノー」と言いたいのに、頼まれれば「ノー」と言えないためにどんどん引き受けます。したがってやればやるほどもっとやらなければならなくなります。しかし、人には限界がありますので、「ノー」と言えないと生活の他のところに影響が及びます。例えば、家族関係とか友人関係が犠牲にされます。退職後は夫たちは妻と一緒の時間を過ごしたいと考えていても、妻は必ずしも夫とではなく友人との時間を望んでいるという現象は、夫が仕事に対して「ノー」と言えなかったために、妻たちが犠牲にされた結果といってよいかもしれません。
また、身体の限界を越えて働いている人が多いようですが、そのような人は疲れを感じなくなります。人間はある一定の限度を越えると疲れを感じなくなってしまうのです。ワーカホリックの状態といえますが、このような状況でしばしば悲劇が起こります。それは突然死です。仕事に対して「ノー」が言えないと身体的な限界に突き当たり、身体がこれ以上は無理だというので「ノー」というのです。
義務的な関係:
また、関係的なバウンドリーが確立していないと、人間関係が非常に義務的になります。日本には義務的な関わりがいくつもあります。夏になるとお中元でしょうか。冬はお歳暮、それから年賀状もそうでしょう。もちろん義務的ばかりとはいえないものもありますが、義務的にしなければならない人たちも多いのではないでしようか。このような慣習は、まさに日本は文化自体が、関係的バウンドリーと相反する性質であるということです。このような文化ではなるべく本当のことは言わないで、丸く納めようと努力をするのが成熟した人の姿だと思っている人々が多いのではないでしょうか。それは関係的バウンドリーが確立していないということです。
これをバウンドリーがくずれているととるか、日本的だととるかは人によって違うのですが、メンタルヘルスという面からはやはり問題だと思います。人間関係(家族関係も含め)で悩み、くたくたになっている方々のほとんどは義務的な関係が原因になっています。もし、同じような苦労をするにしても、バウンドリーがあって、自由と愛を土台としている場合、ストレスや苦労は何分の一かに下がります。それは、心に自由があるからです。義務的な関わりですとストレスがストレスを呼んで、何倍にもなって疲れさせてしまうのです。