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Henrikは船は既に建造中であり、108ftでも十分国王の満足を得る船になると抵抗したが、抗し切れず、王に従うしかなかった。このように一旦基本設計を崩すと変更が際限なく殺到し、最終的にはバーサ号のキール長は135ftになったが、既にキールと船底は108ftを基本に据付られていたので、強度、船型その他すべて手直しに継ぐ手直しとなった。

 

2.3. 三転四転した兵装計画;

 

最初の計画は24ポンド砲60門搭載であった。この計画は如何にも無謀なものであったか。タイプシップとしたと言われるフランスのSaintu Louis(△;1,100t)は241bs-26門、121bs-2門であった。バーサは△=1,200tであることをみれば歴然としている。これが無理だとわかると、次は241bs-36、121bs-24、241bs-54、241bs-30、121bs-30の他に臼砲と言った具合に次々に計画が変更された。135ftにしても、下甲板で片舷24の砲門しか確保できないのに、一体なにを考えていたのだろうか。そのうちに、上甲板上の砲も下甲板と同じにとその上に甲板を張ることになった。上下2層の砲甲板を全部囲った世界初めての船になった。

 

2.4. 造船家Henrikの病死;

 

108ftで出発したのに次々の変更、強度を確保するための余計な補強、船底は大型船に比較して容積的に余裕がなく、バラスト搭載の容積も十分とれない。2層砲甲板になる等重量と重心が上がるばかりの変更。その上、砲も変更に次ぐ変更。1625年末にはHenrikは遂に病気になり、1627の春病死した。彼の後継者としては助手のHein Jacobsson(オランダ人)が継いだが、Henrikが病気してからは強力な造船家のコントロールがなくなり、前述のような勝手な変更が横行したものと考えられる。

 

3. 沈没後の法廷尋問;

 

1628年8月11日(沈没の翌日)艦長Sofring Hanssonが拘束され、尋問に掛けられた。但し、法廷記録は余り残っていない。理由は尋問というより、誰の責任かを追及するのに忙しく、十分時間が取れなかったことと、書記が専門用語に追随できなくて、十分記録されなかったことにある。公式の尋問は9月の5日にも行われた。この法廷は専門家6人を含む17人で構成され、議長は国王の異母弟Karl Karlsson Gyllenhielmであった。

 

3.1. 沈没当時の移動物件;

 

当然のことながら、砲架が所定の場所にあったか。テークルがかけられていたか。

テークルが緩んでいなかったかが問題になった。

艦長の答弁;砲架はよく縛られていた。総ての人員は所定の場所にいて、酒に酔ったものはいなかった。

この証言の正しかったことは333年後引き揚げられた時、砲架は総て所定の場所にあったことで立証された。

 

3.2. 復原性に関して;

 

(a)復原性試験;

バーサは艤装岸壁で復原性のテストを行っていた。このテストはフレミング提督立会のもとにおこなわれたもので、艦長の証言ではバーサが艤装中でも不安定であったので実施されたものである。この試験の様子について、ボースンMatsson証言は

「30人が片舷から反対舷へ走った。第一回の走行で1プランク傾き、第二回の走行で2プランク傾き、第三回の走行で3プランク傾いた。そこで提督はテストの中止を命じた。更に続ければ転覆したと思われた」と。

 

 

 

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