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第II部 バーサ号の転覆沈没事故に学ぶ

 

1628年8月10日(日曜日)午後3時、艤装を終えたスェーデンの新造戦闘艦バーサ号は艤装岸壁を離れ、処女航海に出帆した。10マイル位進んで、ストックホルム湾内の少し開けたラーゲルヴィーケン湾に差し掛かった時、突風(突風と言っても4m/sの微風を受けて傾斜し、下部砲門孔から海水が流入して、ベックホルメン島の沖数百メーター、水深約30mの所で転覆沈没した。

最も短い生涯と言われる所以である。333年後の1961年に引き揚げられ、1990年バーサ博物館に保存された。最も永い生涯と言われるのはこのことである。

また、「ラッキーな転覆」とも言われる。転覆そのものは「アンラッキー」であったが、沈没場所が海軍工敞に近い所で、水深が浅く、ピカピカの新造で沈没したから、引き揚げても大して傷んでいなかったからである。

浸水、転覆を含んだこの事故の背景には、たび重なる設計変更や、権力者の強制、技術的事実と官僚制度と言った種々参考になる背景がある。これを辿ってみよう。

 

1. バーサ号の一生の概略;

 

バーサ号の一生の概略を図1.に示した。最も短い生涯は上の図で、最も永い生涯は下の図で示した。(文献1)、2)より作った)

 

2. バーサ号の計画と度重なる設計変更;

 

バーサ号の計画から建造途中の度重なる仕様の変更を極く手短にのべよう。

 

2.1. 当時の海軍工廠と造船家;

 

1621年から1625年の間スエーデン海軍工廠はアントニウス・モニールに指揮されていたが、造船技術者としてはオランダ生れのヘンリケ・ハイバートソン(Henrik Hybertsson)が雇われ外人として働いていた。1625年1月16日工廠は新契約に調印した。その時、Henrikの兄弟Arend Hybertssonが営業屋として参加した。Arendは敏腕の営業屋として、スェーデンとオランダを往き来し、Groot(Grandの意)或いはDegroot(The Bigの意)と呼ばれていた。

この時の契約は4隻で、内2隻は"Smaller"キール長108ft、他の2隻はキール長135ftの"Larger"であった。[オランダの造船技術に依存していた時だから1ft=11のアムステルダムftであったかどうかは定かではない]

契約当時工廠は経済的な問題を抱えていて、種々の問題が発生し、バーサ号の工程遅延もその一つで、完成前に突貫工事が行われたり、そのため、Arendと工廠の間に軋櫟が生じ、Arendがストックホルムの市民権を放棄して、こっそりオランダヘ帰ったり、ストックホルムに戻ったりと言ったトラブルがあり、これらの円滑さを欠いた状況がバーサ号の事故の大きな背景になったと言われる。

 

2.2. 建造中仕様の変更と国王の介入;

 

1625年9月の嵐でスェーデン海軍は少なくとも10隻の軍艦を喪失した。これを補充するため、同年初頭契約した"Smaller"2隻を直ぐに着工するように命じた。工廠はこれに応じて着工した。この時、国王グスタフ・アドルフは大砲だけではなく、造船に対しても口出しし、クラス・フレミング(Klas Fleming)提督に王の仕様書としてキール長120ft、船底の幅24ftの寸法を押し付けた。1626年2月22日、国王は再びフレミング提督に国王の仕様に従うように書簡を送り、1月後、造船家Henrikにも"Larger"の代わりに国王の仕様に従うように命じた。

 

 

 

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