連載 笑う門には福来たれ
掛け値 『江戸のこばなし』 よりNo.5
主人が丁稚(でっち)を呼んで、「お前は、掛け値なしで売ろうとするから、なかなか商(あきな)いがうまくいかぬ。一匁(もんめ)で売ろうと思う時には二匁と切り出し、五匁で売ろうと思う時には、十匁と高く値をつけておくがいい。そして、求めに応じて少しずつ値を下げていく。これを、掛け値と言ってな、商いをする時の大事なコツなのじゃ。いいか、分かったな。これからは、何によらず、すべてこの要領でやるのだぞ」
と言いつけた。
それから数日たって、
「火事だ!」と言う声を聞いた丁稚が、急いで火の見に上ったので、主人が、
「火元はどっちの方だ?」
と聞くと、
「掛け値(かけね)で申しますと、五、六町も南でございます」
と答えるので、
「たわけ者!火事に掛け値がいるものか!」
としかりつけると、丁稚、あわてて言いなおし、
「掛け値なしで申しますと、燃えてますのは、目と鼻の先の下の町でございます」
(「軽口駒佐羅衛」(かるくちこまさらえ)安永五年・一七七六年刊)
● 従順すぎる部下というのも、いずれの世でもちと困りもの。しかし一方、上司たるもの、「部下の行動学」を見抜いて指示を出さねば意味がない。この丁稚、果たして火事以外の別の災いから主人を守れるか。店の運命やいかに…?
● 江戸時代、町人の間で広く愛された「小咄(こばなし)」。短い話の中に人情や世相の機微を取り込みながら、おもしろおかしく結末を結ぶ。世の中ははるかに変われど、当時のこばなしは、時空を越えて現代の私たちにも粋な笑いやペーソスを届けてくれる。山住昭文氏による著作から毎回連載でお届けする。
● 『江戸のこばなし』(定価1100円) 山住 昭文著
原作の味わいを残しながら、現代の読み手にもわかりやすく手を加えた軽妙な文章の1冊。筑摩書房から好評発売中