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また、妄想の主題としては、家の境界に関連することが多く、内容的には侵入とか迫害といった被害的なものがほとんどであるから、こうした妄想の形成や発展は日常生活をひどく崩してしまう。従って、頻度は大きくないにしても、ダメージの大きさを考慮すると、できるだけ予防することが望ましい。

しかし、実際には、病態が重篤となって医療機関を訪れることが多く、治療効果があがりにくくなるので、早期に適切な対応が為される必要があると思われる。

 

3)事例3 C男、63歳

〔生育・生活・現病歴〕

小学生の頃から両側中耳炎を繰り返し再発させたため難聴が発生し、38歳頃より聴力が徐々に低下してきたので補聴器を装用するようになっていた。

60歳時に、長年精勤した鉄工所を定年退職したが、退職前後より急速に聴力が低下してきた。入院治療も受けたが改善せず、全く聞こえない状態となってしまった。しばらくして、聴覚障害が固定したと判断されて、身体障害者手帳(1種2級)が交付された。

しかし、その後も音を取り戻すことに執着して、人工内耳の植え込みを強く希望し、某大学病院の耳鼻科で検査を受けたが、適応ではないとされた。

それでも、本人は諦めきれず、別の大学病院の耳鼻科でもう一度検査を受けたいという。

これとは別に、2カ月前から耳鳴やふらつきがひどくなり、頭重感ないし頭痛も生じてきた。また、外出はほとんどせずに臥床していることが多くなってきた。何事にも意欲が湧かないので、家族が心配して精神科の受診を勧め来院した。

性格はもともと真面目で几帳面である。

〔現在症・治療・経過〕

表情が乏しく、発語も少なくて、問診に対する反応がかなり鈍い。すぐに返事ができないという感じである。

また、人工内耳の希望以外は、今後のことは何も考えられないし、最近は眠りも浅いという。

頭重感や頭痛など身体的愁訴があり、欲動や意志発動性の低下などから、抑うつ状態にあると思われた。

受診時点では、今後のことを考えたり、行動に移すことはやめて、まずは抑うつ状態から脱する必要があると思われ、抗うつ作用のある精神安定剤と睡眠導入剤を投与しつつ、C男の現在の気持ちを表出させて共感するなど心理療法的アプローチも行った。

身体的にはメニエル病の急性期に近い状態とも思われ、心身の安静を指示していたが、状態像は徐々に改善してきた。

迅速で十分な改善が得られたわけではないが、1カ月後に人工内耳の適否判定のために某大学病院耳鼻科を受診することを、C男自身が強く希望したため、精神科的治療については同大学病院精神科へ依頼した。

〔コメント〕

C男の場合、それまで補聴器で何とか聴こえていたのが、急に失聴状態となり、前後して退職も経験することになり、いわば二重の喪失体験により大きな精神的負荷がかかったものと思われる。老年期は「喪失の時代」とも言われ、家族、社会的地位、身体機能などを失くすことが多く、同時に複数の喪失体験が生じることも少なくないと思われる。

 

 

 

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