立ち止まったりすることが怖かったのだと思う。
患者さん一家族が涙を流すと一緒になって涙を浮かべてしまったり……それはいけないことなのかどうか分からなかった。看護婦も人間だし、患者さん・家族の悲しみを一緒に感じてもいいのかどうか、一緒に涙を浮かべることは未熟だからだろうかと逃げてしまうことがあったが、今になって思えば、患者さん・家族の気持ちを受け止めて、その気持ちを「…だったのですね」と返していけばいいのだということをコミュニケーション論で学ぶことができてよかったと思う。
悲しいこと、つらいことを受け入れることの難しさ、受け入れる私の心の余裕をなくさずに、これからも援助していきたいと思っている。
その他、症状が軽減しないときに、どう援助していくべきか迷ったり、逃げてしまったりしていたように思う。
例えば、呼吸苦で苦しんでいる患者さんの前で、「何かできるとき」は処置をして、看護婦として立ち止まることは少ない。しかし、「何もできなくなったとき」に困ってしまって立ち止まる。何をしてあげればいいのかが分からないと悩んでしまう。悩むのは看護婦だけではなく、家族も苦しんでいる患者さんを目の前にして困ってしまう。
ホスピスや緩和ケア病棟であるならば、セデーション等の対応ができると思うが、私たちのような一般病棟の場合、患者さんの意思決定がないままに、家族の承諾だけで行ってしまうことも考えられる。患者さんの尊厳を無視してしまうことがないようにしなければならないと思う。状態が予測できるとき、看護婦として医師の今後の方針を確認して、患者さんと家族の意思を確認し、できるだけ患者さんの意思決定ができるように援助していかなければならないと思っている。
そして、看護婦は呼吸苦等(症状コントロール)に対してマネージメントする役割があり、しっかりとマネージメントできるように学んでいかなければならないと思っている。また、家族への援助も十分に行う必要があることも、あらためて学んだ。
研修を終えて、私の役割として、患者さんには全人的苦痛があること、その苦痛を無視してしまわないように援助していくことが大切であることを、医師や他の看護婦に伝えていかなければならないと思っている。
まだ印象に残っていることはたくさんあるが、今後に生かしていけるように努力していきたいと思っている。
講義と実習を終えて「私がどんな看護を提供していきたいか」ということであるが、患者さん・家族がどのような苦痛で悩んでいるのか、しっかりと見ることができるように、同じ目線で誠意をもって看護を提供していきたいと思っている。そして、いつでも手を差し伸べることができるような、“愛”のある看護を提供できるような看護婦になりたいと思う。人間的にも深みのある日々を送れるよう努力していきたい。
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