状態を見ながら勧めていったほうが良い問題であると実感した。
終末期であったが、一カ月近く小康状態で経過していた患者を受け持っていた。以前より、終末期であり最期は何もせず自然の経過で見ていこうと話し合いが決まっていた。それまで一日3本であった点滴を2本に減量したころより、少しずつ状態が悪化していった。
私が夜勤をしていた朝、患者の妻が「点滴を減らしてから衰弱しているように見える。このままでは衰弱死してしまうのではないか」と訴えられた。私はなぜ医師が点滴を減らしたのか十分理解できていなかったため、医師から説明してもらうように次の勤務者に依頼した。その日の医師と看護婦の記録からは、説明により家族が納得されたような記述がされていたが、どのような説明がされたかは残されていなかった。その夜、患者が急変されたとき、家族から「医師からは1〜2日で急変することはないといわれたのに、どうしてこのような状態なのか。こんな状態なのになぜ医師がいないのか」と取り乱された。私はその日、医師がどのような話を誰にされたかわからず困惑したが、以前からの話し合いの中で最期は自然に任せると話されていたこと、今点滴を増やしても状態が改善される見込みは少なく、かえって患者の負担になる可能性があることを説明し、一応納得された。患者の最期に直面し、家族が取り乱されることに時々遭遇する。
三方原病院で実習したとき、入院を希望される家族に医師が、この病院に入院して何を希望されますかと話され、そのことを十分家族で話し合ってきてくださいと説明された。当病棟では、病状説明はキーパーソンにされることがほとんどで、どのような終末期を送りたいか話し合ってほしいことなど伝えることがなかった。本当の医療は、医療スタッフが決定するものではなく、患者が選択するものである。そう考えると、これまでの病状説明は不十分なものだったと感じる。
そして、急変の可能性があることも伝える必要があった。夜間や休日は当直医師が対応することもあることを伝えている病院もあるという。たとえ看護婦が病状説明に同席できなくても、機会を逃さず専門的コミュニケーションを使用して、病状が理解できたか、看護婦や医師が力になることはないか、共感することなどで家族の直面している危機状態を軽減できるように家族看護をする必要がある。そして、家族看護を続けるためにも、申し送りのない当院ではきっちりと詳細を記録に残しておかなければならないと感じる。
終末期後期の死期の1〜2日前になると、患者は身の置き所のない苦痛が出現する可能性がある。そのような状態になった患者に対し、鎮静が必要になることがしばしばある。このような患者に対し、患者の苦痛を軽減できる有効な薬剤とその使用方法はないだろうか。また、そのような状態になる可能性があることをいつごろ家族に説明すればよいだろうかと考えていた。実習先の三方原病院では、持続皮下注入のなかに抗精神薬を混入して軽い鎮静を施行したりしている例もあり、またはドルミカムを使用しているとのことであった。呼吸困難感が強い患者では、オピオイドを使用し、コントロールしていた。研修の中では、淀川キリスト病院ではフェノバールを持続皮下注入していることを教わった。鎮静について三方原病院の千原医師は、どんな方法をとっても苦痛が除去できないときに鎮静を行うと。1番目は、夜間のみの鎮静。2番目は、つらいときは昼間も短時間に鎮静をする。3番目は、持続的な鎮静を行うとのことである。鎮静に対しては、患者の精神状態と自己決定のバランスを見ながら患者と家族に説明しているとのことだった。そして、鎮静が必要な場合でも患者が決定できないときは、複数の医師が検討しながら家族に相談していると教わった。研修に参加して、今、倫理的に鎮静について問題になっているということを初めて知った。
脊髄に転移した患者は、疼痛コントロールをしても臥床生活を強いられる場合がある。このような患者が退院するときには、当院では医師、担当看護婦、家族、在宅看護婦でカンファレンスするが、ソーシャルワーカーやリハビリテーション科との連携などが結べていない。患者・家族のニーズを満たすために、他の施設では医師、看護婦以外の医療スタッフや社会資源をどのように活用しているのか知りたいと思っていた。
リハビリテーション科の大川弥生医師の講義では、リハビリテーションの目的は、人間らしく生きる権利の回復と教わった。これまでリハビリテーションは、障害が出現したときのみ依頼しているような状態であった。
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