精神的サポートについてもさまざまな講義を受けるにつれ、簡単にできるものではないという思いが募るようになった。実習に入る以前に目標に関することやそれ以外の緩和ケアに関することについて学び、考えの甘さを痛感すると同時に新たな思いも抱くようになった。このように私自身のなかで緩和ケアに対する思いの変化が起こり、違った考えも持ち始めたところでの実習となった。また、実習施設の方でも私たちの経験に配慮したプログラムを準備してくださっていたこと、実習施設の状況などもふまえ目的・目標も修正していった。
実習の第1週目「まずホスピスがどんなところか実際に見なければ始まらない」という思いにかられた。また、施設の方でも「ペアナースと共に行動し、患者と接する中で自己の課題解決へと導いていける」という一般目標、「当ホスピスにおける看護の実際をペアナースと共に行動し体験する」という行動目標をかかげてくださっていた。そのため第1週目は日々の目標に「ペアナースと共に患者さんのケアに参加し体得する。看護婦さんの言動とその理由を結びつけて考えることができる」という類の言葉をあげ、実習をすすめた。
私は自分の施設に重症な患者さんが少ないこともあり、ケアに自信がなかった。普段は丁寧にケアするように心がけていたが、ホスピスでは患者さんの体力や苦痛の程度が自分の施設と違うのでプラススピードが要求された。そんなぎこちなさ、ケアの拙さが患者さんにも伝わり、ある元校長先生をされていた患者さんから「私なりにあなたに対して感じたことを率直に言わせてもらうと、何だか態度がおどおどしているというか自信がなさそうというか、もっと言えば遅いというかそんな感じがする」との言葉をいただいた。私のコンプレックスをズバリと指摘されたことと、「今まで私がケアしてきた患者さんは我慢されていたんだなあ」との思いでとても落ち込んだ。しかしこの出来事からよい学びを導きだすとすれば、「ケアを通して思いは伝わる」ということではないか。私は言葉で「私ケアには自信がないんですよ」と伝えたわけではないが、ちゃんとそのことは伝わっていた。良いメッセージにせよ悪いメッセージにせよ「思い」には違いない。確実に「思い」は伝わる。そんな学びを導きだすのは強引であろうか。
第1週目の実習で具体的なホスピスでのケアについて多くのことを学んだ。ひとつひとつあげることはしないが、看護婦さんのされているすべての行動に意味があり、そのひとつひとつの意味を教えながら一緒にケアをしてくださったそのことは決して忘れることはない。そしてその意味というのはつきつめるとすべて「患者さんにとって良いこと、患者さんが望んでいること」につながっていく。私が普段仕事をしているときにもその行動になんらかの意味があるはずである。しかしそのことについてきちんと考えることが少ないし、流している。「どうして?」と考えてみても行動のなかのいくつかは明確な理由があげられず、「こうするように教わったから」とか「先生の指示だから」とか、ひどい場合には「何となく」などということもあるかもしれない。このような行動には説得力がない。ホスピスでのように行動に明確な意味をもたせていればその行動には説得力があり、だれもが納得できるものとなる。別の見方をすれば、明確な意味付けのできない行動、「患者さんにとって良いこと、患者さんの望んでいること」という理由のつかない行動はホスピスの看護にはないのかもしれない。本当はホスピスの看護だけではなく、医療全体がそうでなければならないと考える。自分たちの利益のため、病院の利益のための行動が多いのではないか。つきつめても患者さんの利益につながらない言動が多いのではないか。
第1週目の実習ではホスピスでどのような看護が行われているのか、患者さんや家族はどんなふうに過ごされているのか、講義や文献からは学べない「現実のホスピス」を学ぶことができた。地域や病院の事情、医療制度の変化によって個々のホスピスに求められるものは違ってくる。確かに「理想のホスピス像」というものはある。しかしそこにこだわり過ぎるあまり、「求められているホスピス」とは違ってくるというようなことが起こるとすれば、それは自己満足になってくるのではないか。それともホスピスだけは理想を崩さず貫くべきなのだろうか。そんなことも考えさせられた。
実習第2週目は、ホスピスに関連する部署の見学や、スタッフからのお話をうかがうことから学んだ。またフリーの時間には患者さんからお話をうかがい、そこからも多くの学びがあった。
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