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心のこもったケアとは

愛知県がんセンター
川瀬洋子

 11月9日から始まった実習だったがあっという間の実習であった。患者・家族のだれもが口をそろえたように言われた。「ここに、来て良かった……と」 私たちが実習に来て、最初の1週目に5人の方が亡くなられた。本当に安らかに眠るようにいかれた。乳癌の再発で皮膚メタの患者さんの息子さんは、「ここに来るまでは処置が優先されて苦痛との戦いでした。嫌だと言っても必要だと言われ処置がされて、見ている方がつらかった。本当にここに来て母も救われた」と話して下さった。
 井上米子婦長さんが講義の中で話された患者さんは、衰弱が進み、訪室すると上肢を出すので、「だるいのですね?」と声をかけると何も言わず私の目をずっと見つめていた。さすっているとまた目をつむった。しばらくすると今度はシーツをめくって下肢を出し、また私の目をみて目で訴えるのである。さすっているとまた黙って目をつぶる。死を受けとめているようで11/11の日に「家に帰りたい」と目をあけては「帰りたい」と言い続け、妻はもと看護婦であったため外出が許可され、11/12の9時30分に明石の自宅までもどり夕方に帰院した。深夜に亡くなったが、患者も家にもどれたことはわかっていたとのこと。妻も最後の希望をかなえてあげれたことに満足していると言われ、それまでは作り笑顔だったが、心からの笑顔を見せてくれた。
 そして、名古屋の人が入院しており、その娘さんと話していたら偶然にも私の住んでいるところから500メートルも離れていないところに住んでいた方であった。その方の母親は名大の元看護婦で、27年間働き定年でやめ、食道癌にてOPを受け退院したが、肺に転移したのを言ってもらえず医療不信をいだき、今年の初めに宝塚のほうに引っ越してきたそうである。自分たちの生活にも追われ、子供が中学生と小学5年生の子がいるが下の子が登校拒否で悩んだりしていたため母親の方に目を向けられなかったと悔やまれていた。気がついた時は歩くのも大変そうで、少し歩いては休まないと歩けなかった状態にもかかわらず、どこの病院がいいのか引っ越ししたばかりでわからず、ある病院に行ったら「それくらいでは入院できない…」と言われたそうである。「紹介してほしい」とたのんでも紹介してもらえず、困りはてて市役所に行ってアドベンチスト病院を紹介してもらい、入院をさせてもらった経過を話してくれた。母一人、子一人で育ったこともあり、ましてや母は看護婦で27年間も名大で働いてきたのに……との思いもあり、医療者に対しては厳しい口調であった。また表情もこわばった硬い表情が続いていたが、この方も11/11頃から意識レベルが低下し、日に日に娘さんも母の死を受け止めていったようである。それまでは医療者の悪口しか話さなかったのに「最後にここに来て良かった……終わり良ければすべてよしと思えるようになりました」と涙ながらに話し、それから硬かった表情が柔軟になってきた。そして、「母を送ったら子供をつれて東京に単身赴任している夫のもとに行きます。家族がばらばらで暮らすのは良くないですもの」と話し、前向きな姿勢がみられるようになった。娘さんが一人で介護されており、私も自分にできることがあればと思っていた。そして、11/14〜15日くらいが危ないのかなとの思いでいたが、11/16の明け方4時30分頃に亡くなられた。5時に電話が入り、急いで病室に走り、死後の処置を手伝い、荷物の整理も手伝った。ワゴン車に荷物を一緒に運びながら娘さんは「本当に良かった、ここに来て……」と独り言のように、また自分を納得させるように言っていたことが印象に残っている。そして、「やはり癌になったら癌専門病院に行った方がいいよね…」と言って笑顔を見せてくれた。

 

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