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受講者名
回答内容

麻生香代子   患者をケアすべき対象としてのみ考えるのではなく、私自身が同じ人間であるという思いを常に忘れないでケアにあたらねばならない。ややもすると対象に何らかの変化をもたらさねばならないと考えがちであるが、人の想いは簡単に変わるものではない。人の思いが変わるときというのは、相手に真実と誠意を感じたときだと私は思う。患者の言葉に真摯に耳を傾け、その真意を捕らえ、それに共感し、この患者にとって何が最も必要なことかということを最優先に考えてケアを提供しなければならない。スタッフが困難を感じている時期は、患者自身こそ最も苦しんでいる時期である。患者がどの段階にあるのかということを判断し、時には何も働きかけないことが最善のこともあり、じっと見守る時期もある。そしてこの患者の望むことを許される範囲においてスタッフが共通の認識を持って援助し、患者家族をも支えていくことである。
 人をケアすることは、自分をケアしていることにつながる。自分も癒されるのである。このことは職業的に意識しなくても、日常的に人と人の間で起こっている。ただしケアする人は、やがては自分にも死が訪れることを直視し、自分の死生観を知っていなければならない。そして死生観は常にその人個人に所属するものであり、宗教的・社会的・経験的に違うものであり、決して他の誰にも所属しないものである。患者がどの段階でどのような訴えや態度をとってもそれが患者の主観であり、そのままを受け止めるべきである。そして患者やその家族だけでなく医療者もまた孤独と不安に陥るときがあり、患者や家族、医療者は率直なコミュニケーションによって問題を解決する姿勢が望まれる。人は希望がないと生きていくことができないので、問題解決の計画に希望を盛りこみたい。
私は、看護婦としての経験年数も浅く(年齢は最年長かもしれない)、緩和ケアの勉強を始めたのはつい最近のことであり、実際に末期患者のケアに従事したことがないので、概念だけの記述に終始していることを申し添えておきたい。

吉本美智代
 緩和ケアの第一の目標は身体的苦痛をできる限り軽減することだと思う。症状によって多くの患者は一喜一憂し、少しの苦痛でも悪い方向へと不安を抱くからである。疼痛コントロールは随分と浸透してきたが、臨床現場では吐気・呼吸困難・倦怠感・不眠・傾明傾向・鬱など除痛はできたけれども、このような症状に苦しめられる場合が多くある。医師が治療的手段の限界を感じることも多いようである。
 西洋医学の限界に対し東洋医学(鍼灸・指圧・気功・漢方など)や音楽療法・アロマテラピーアニマルセラピーなど(他にもいろいろあると思うが、これくらいしか思い浮かばない)治療にこだわらない多面的な援助が必要ではないかと思う。
 また、人生の終焉を迎えるにあたっての心の安定や癒しのためには人間関係の力及び自然の力が大きいと思う。
そういった意味でも看護婦の役割は、身体的にはセルフケアの不足を補うと同時に、症状コントロールのための個性を知り、多面的なコーディネイトや人間関係のマネージメントを行うことではないかと思っている。

内田 香織
 〈私の考える緩和ケアと看護婦の役割について〉
私は現在ホスピスでの勤務が2年目になる。その中で緩和ケアとはどういうことか、あらためて思い直してみると、それは学生の時に何度も教え込まれた看護の基本・看護の原点ではないかなと思う。学生の時に『患者さんの立場に立って、患者さんの気持ちに沿って、等』よく言っていた。しかし、実際の勤務として働くうえではなかなか上手く行かず様々なジレンマを感じていた。それが、ホスピスに来たとき目の前が開けたような気がした。私が学生の時、思ったような看護が目の前で展開されていたからである。当然のことであるが、患者・家族が中心であることが大前提でケアは進められる。患者をひとりの人間として尊重し、全人的な視点でとらえ、その様々な苦痛に対応していかなければならない。それは、緩和ケア、ホスピスケアに限ってだけではないと思う。それはやはり看護の基本というか、そういうものではないかと思う。それだけに看護婦の担う役割も多く、専門的な知識はもちろん看護婦自身の豊かな人間性、感性が要求されると思う。
 看護婦の役割としては、症状マネジメント・その人らしさを重視した日常生活の援助・指針・霊的ケア・家族のサポート、またコーディネーターとして各種の専門家に介入を依頼したり、チームの調整役をしていくことであり、それらを担えるよう努力していかなければならないと思う。

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