イマジネーションが現実からの保護を与え、しかも真実を反映している場所がある。それはここ、この国境の地、何か新しいこと、困難でエキサイティングで、しかも地に足の着いた何かが生まれる可能性のある場所である。それは硫黄酸化物と窒素酸化物と二酸化炭素をビオトープマップと結合させて論理的な全体を形成しようとする、といった問題ではない。新しい問いに対する新しい答えを探すという問題なのである。また、もう一つ強調したいのは、めまぐるしく変化する世界では、最も重要な問いを発するのは特にごく若い人たちだろうということである。大人達は答えを出す手助けができるようでなければならない。
(3)新旧の知識
場合によっては、問題が新しいものでなくてもよいことさえある。それらは、我々すべてがもっと早く答えられるようになっていなければならなかったのに、何等かの事情で本来あるべきレベルで系統的に対処されていない類の問題かもしれない。たとえば、
-国内の100キロの廃棄物は地球的には15キロの廃棄物を生み出す。残りの85キロはどこに行くのか。
正直なところ、貴方はこの答えを知っているだろうか。ためらうことなく、即座に「二酸化炭素と水になる」と言うことができるだろうか。答えられない人は、恥ずかしがってはいけない。怒ってほしい。光合成という言葉を何度聞いても、またこれらの化学式を何度書いても、こうした質問の答えがわかるようになることは期待できない。問題は、貴方が光合成が実際に意味することを理解できるようには決して教えられなかったということである。貴方はもちろん、本がどうやって大きくなっていくか(二酸化炭素と水の「吸収」。非常に多く吸収するので、事実、人間や他の動物が生きて行くのに必要な余剰酸素の一部を生成している)や、分解の結果(土壌および二酸化炭素と水の「排出」)を知っているだろう。この基本的なノウハウがなかったら、たとえば地球温暖化の危険を理解することなどできるだろうか。
(4)新しい考え方
全体的な視野、洞察および個人の実践に欠けた知識は結果として役に立つこともあれば無意味なこともある。我々はもはや、この種の知識に伴う危険や時間を容認する余裕はない。人々が内省的な熟慮という意味で自分自身でしっかりと考える能力を身に付けられるような、首尾一貫したアプローチを示し模索していくことが不可欠である。それだけが、将来への唯一有効な保険である。「新しい考え方」は、伝統的な考え方に基づいたすべての客観的知識が迫り来る破滅を示唆し、あらゆる成長曲線が下降し、そして不吉な流言や悲観論が大衆の意識を握りつつある時に、まさに必要なものである。
(5)時間