教師達が証言した環境教育の問題点
まず、多くの国際機関や国際会議で提唱された環境および環境教育の概念が広すぎて、教育全体をたやすく包含してしまう。その結果、環境教育の教師達は、自分達の主な目標が何かを見つけるのが困難で、教師仲間、生徒、父母、監督官など、彼らの熱意を共有していない他の人々にそうした目標を伝達することが難しい(Gayford,1991)。
また、環境教育の指導者はしばしば、大規模な環境問題に特に関心が深いように見える。たとえば、熱帯雨林の破壊、原子力発電、人口問題、他にもいろいろある。この結果、環境教育が「問題本位」になり、生徒の教育的経験を計画し組織する人々が期待する一貫性や精密さに欠けたものになることがある(Goodson,1993)。環境教育の場で取り上げられるこうした問題の多くは、広範で複雑でストレートに答えの出せるものではない。道理をわきまえた人々の間でも意見の対立があることが多い。教師も生徒もしばしば、こうした状況を他の教科に比べてわかりにくく、いらだたしく、飽き足らなく感じる。環境教育の全体論的な性格は、自分自身も伝統的な還元主義の断片的な教育を受けて、個々の問題に応じて持ち出さなくてはならない多様な概念や異なった考え方に対処できないと感じる教師達にとっても問題となりうる(Smyth,1995)。
教科一辺倒主義は、特に中学高校のカリキュラムに根強くあり、教師達は統合的または学際的な分野に関ることを非常にいやがる(Layton,1972,Gayford,1986)し、さらにはっきりと教科専門の教師のニーズに合わせている教科会からのサポートも少ない。カリキュラムを横断した分野は、教科専門の教師がカリキュラムのこの側面を受け持とうとしなかったり、受け持ちを決める時に他の分野の専門教師が幾分かでも関係のある分野の教師に押し付けようとする傾向があるために、しばしばうまくいかないことがある。この現象は、カリキュラム横断的な計画や調整のプロセスに深く影響している(Gayford and Dorion,1993)。
教師達は環境教育が教化の一つの手段として扱われることに強い懸念を抱いており、これは環境教育のかなりの部分が価値観、態度、行動などに関るという事実による。また環境教育は、しばしばカリキュラムのこの部分に熱心で極端な意見を持った教師達によって教えられ、彼らの特定のイデオロギーを推し進める機会として利用される可能性がある。
環境教育に関する議論のかなりの部分が明らかに政治的な意味を持っていると認められる時、この懸念はさらに明白な根拠を持つことになる(Orr,1992)。
広い意味での環境教育の評価には特有の問題があり、それゆえに伝統的な方法では不適切だという結果が出ている。ほとんどの国々で、しばしば育成すべき資質を測定できるものだけが教育の優先事項としてふさわしいと仮定する危険があるほどに、教育成果の評価に関しては固定観念がある。これが教育の根本的な目的をめぐる重要な論争を生んでいる。環境教育は問題解決や意思決定な