温室効果ガスの蓄積による気候変化、オゾン層の破壊、および主として生息地の破壊による生物学的多様性の減少など、環境の無制限な商業的利用が与える長期的な副作用の方に、関心が移っている(United Nations,1992、Department for the Environment,194)。
持続可能性の議論と環境意識
環境教育についての考え方の、最も重要な変化の一つは、環境への懸念と開発問題との結合である。ここから、持続可能性という考え方が中心的な概念として生まれてきた(Brundtland Report,1987、UNCED、1992)。持続可能性についての合意された定義はまだないものの、現在の必要を満たす能力を将来の必要を満たす能力に結び付けることなど、一定の基準ができている局面も多い。しかし、たとえば持続可能性という言葉がしばしば持続可能な開発という言葉に置き換えられることなど、基本的な前提の一部について、かなり意見の対立がある。大半の人々は、開発といえば、成長とかそれに関連するいろいろな解釈が頭に浮かぶだろう(Orr,1992)。シュライヒャーSchleicher(1989)は、人間の態度と行動の規範を、通常思い浮かべるような成長を必要としない環境へと転換することを主張している。この考え方は、「地球を愛する:持続可能な生活への戦略(Caring for the Earth:a strategy for sustainable living)」(IUCN、UNEPおよびWWF、1991)においてさらに発展し、「持続可能な」生活の実現は他の人々や自然との調和を求める必要性を受容できるかどうかにかかっている、という理念を人々に受け入れさせるために、教育は重要な役割を負っている、という主張がなされた。
環境教育と開発教育との結合は、環境破壊の多くは貧困の直接の結果であるという考えを認めている点で、根本的な重要性を持っている。しばしば「先進開発」国とよばれる豊かな国々ではしばしば、環境のアメニティーとしての価値に重点が置かれ(Redclift,1994)、レジャーや休養のための場所の需要に基づいて、その結果として環境保護を求めてきた。貧しい国々では、生き延びるために短い間に環境資源を使う必要があるという事情が優先した。この二つの異なった状況の中では、環境保護の概念は異なった意味を持っている。開発はしばしば富める国と貧しい国との経済提携の結果であるという事実は、さらに大きな意味を持っており、環境教育に関連してこれらが研究されつつある(Reaching Out,World Wide Fund for Nature,1993など参照)。
いわゆる「環境意識(green awareness)」(0’Riordan,1981,Cotsgrove,1982,Witherspoon and Martin,1993)の研究では、環境に対する態度には利益集団をまたがった一貫性は全くなく、雑多であるという結果が出ている。研究によれば、環境への懸念を公言する人々は、いくつかのグループに分類できる。たとえば、野生生物やその生息地の保護に特に関心のある人々がいる。また、自動車の廃棄ガス、核廃棄物、温室効果ガスなどの汚染について特に心配する人々もいる。彼らの関心は、多くの場合、その人体への影響に集中している。また、0'Riordan(1981)が