この問いに答える為に、私はまずこの問いを、もっと大きな関連の中に置いてみたいと思います。私達人間は、自然の一部なのです。自然を保護し、維持することが、私達にもはやできないのだとしたら、それは言わば、自己破壊でもあるのです。
広範囲の原料採掘と環境汚染による自然の酷使、森林の、特に熱帯雨林の破壊、農耕地の侵食、水域汚染、オゾン層の化学変化(温室効果)、又その他のエコロジー上の問題は、あらゆる環境政策上の努力にもかかわらず、世界的な規模で益々増えてきた。
最近出たばかりの「成長の新たな限界」という本の中で、アメリカの有名な生態学者、デニス・L・ミードースとその共著者は、このように警告的な総括をしています。
しかしミードースは、実際にあまり喜ばしいものとは言えない自分の分析が、恐怖の末来像として誤解されることには抵抗しています。美化潤色をするような人では決してないミードースですが、彼は、環境問題とその世界的な連関について、人々が益々多くの情報を得ているというところに、人類にとっての新しい種類のチャンスを見ているのです。ミードースは、環境意識の高まりや、個人ばかりでなく、国家の諸機関や社会的な制度にも認められる、「エコロジー的思考の大変な前進」、という点を指摘しています。環境論争がまだ十分な発達を遂げていなかったとも言える20年前に比べると、これはまさに「革命的状況」であると言うのです。
確かに、環境が現在置かれている状況は、地球上のどこについて見ても、決して安心できるものではありません。しかし一方で、諦めてしまったり、ペシミズムに陥ったり、それどころか、勇気を全くなくしてしまったりする理由もないのです。そもそも、悲観主義的な考え方からポジティブな変化が生まれたことは、めったにありません。
たとえ、エコロジー的な思考転換の進み方が、あまりにゆっくりで、又あまりに徹底性に欠けているように、多くの人の目には映るとしても、ここにおける進歩を否定するわけにはやはりいかないのです。しかし又、新しい課題が増大してきてもいます。確かに、今日のライン川の水質は、1956年の時点におけるよりも良くなってはいます。しかし、エルベ川やオーダー川の環境悪化をそれと比較して見ると、我が国の環境政策が、今後どこに重点をおかなければならないかが、はっきりと分かってきます。
?U.国際政治のテーマ
自然の生命基盤の保護が国際政治の中心テーマになったということは、特に重要な点だと思われます。環境保護政策の分野において、国内的な努力が極めて大切なのは確かだとしても、それぞれの国が単独でこれを行うのは不可能であることが、認識されたわけです。
この点で、たった今終わったばかりの、リオの環境サミットは、特別な出来事であると言えましょう。その際具体的な成果が出てこなかったとしても、私達の総てが、この世界の総ての国が、地球を守り、自然の生命基盤を維持していくという、ひとつの道徳的な義務を共に負っていることが、ここで明らかになったのですから。