システムとしての地方税・地方財政という概念は存在しなかった。18世紀末、地方独自の必要の充当を目的とした税としての「地方税(ゼムスキエ・ポヴィンノスチ)」の概念が生まれた。なお、「ポヴィンノスチ」は英語のlevyに該当する概念であって、労役や現物貢納も含み、近代的な貨幣税とは異なるものである。やがて、この「地方税」を運用・支出する公共活動としての「地方経営(ゼムスコエ・ハズヤイストヴォ)」の概念が生まれた。19世紀前半においては「地方経営」はもっぱら政府機関によって担われたが、クリミア戦争敗北後の行財政危機に対処するために、欧露諸県における「地方経営」は住民によって選出される機関に委ねる方針を政府は採用し、1864年、「地方機構(ゼムスキエ・ウチュレジュヂェーニヤ)」が導入されたのである(10)。「地方機構」の活動があまりにも有名となったので、やがて、「ゼムストヴォ」は「地方機構」の同義語として用いられるようになった。
なお、上述のような概念史の結果として、ゼムストヴォが導入されなかった地域においては、帝政末期に至るまで、地方制度改革に関する問題は「地方経営の方法の改革問題」「地方税の運用方法に関する改革問題」などの名で呼ばれ続けた。
絶対王政・市民革命を経験した国においては、中世的な社団自治が解体され、主権国家が成立し、その対概念として地方自治が生まれたとされる。この標準的な見解が正しいとすれば、ロシアにおける、最初に「地方税」、次に「地方経営」、最後に「地方機構」という地方自治形成の概念史は、たしかに独特のものである。この概念史がすでに読者に予期させるように、ロシアにおける地方自治は、そもそも主権国家の対概念ではなかったし、啓蒙専制に呼応するものとしての性格を最初から帯びていた。ゼムストヴォ導入に3年先立っ農奴解放が、マルクス主義的な「革命情勢」の過大評価を排してもなお、農民の圧力とリベラルな教養社会からの批判に応えるものであったとみなしうるのに対し、ゼムストヴォ導入は、もっぱら開明官僚のイニシアチブで、経費削減、官吏削減、行政効率上昇を目的として断行されたものであった(11)。
他方、ゼムストヴォ導入は、ニコライI世時代の息詰まる官僚支配からの脱却を求める教養階級に恰好の活動の場を与えることになった。折しも、農奴解放の検討過程に地方貴族が大規模に引き入れられたことから、貴族の政治参加の意欲が高揚していた。こうしたことから、もっぱら行財政合理化を目的として導入されたゼムストヴォが自由主義的な社会フォーラム、さらには疑似政党としての役割を担うという皮肉な結果が生まれた。こうした経過は、自由民権運動期の日本の府県会をめぐる経過と類似している。明治政府が地方制度改革のイニシアチブを握り、他方で政党システムも成立したため、日本の府県会は通常の地方議会へと急速に進化した(12)が、そのような要因を欠いたロシアにおいては、ゼムストヴォは行政機構と疑似政党という二重の性格を長く保った。しかし、1905年革命の結果、国会が開設され、まがりなりにも政党システムが成立したため、ゼムストヴォは疑似政党としての役割から解放され、実務的な行政活動に専念するようになった。