である。沿バルト・白ロシア・右岸ウクライナにゼムストヴォが導入されなかったのは、これら地域がポーランド:リトアニア帝国との闘争の結果獲得されたものであり、そこにおける地主貴族の圧倒的多数は依然としてポーランド系であったため、選挙制に基づく地方自治を導入することは危険であると考えられたからである。帝政末期には、ゼムストヴォはいくつかの県にあらたに導入された。そのうち最も重要なのは、1911年における白ロシアと右岸ウクライナへのゼムストヴォの導入である。
ロシア語における「ゼムストヴォ」とは、元々は、「地方」を表わす抽象名詞にすぎなかった。この語は、歴史的には、16世紀にイワン雷帝が国土を「直轄領(オプリーチニナ)」と「貴族の封土(ゼムシチナ)」とに分けたことに端を発する。地方的なるもの一般を表現する「ゼムストヴォ」が「地方自治体」を意味するに至るきっかけとなったのは、18世紀末から19世紀初頭にかけての地方財政制度の成立であった。それまでは、各地方の独自の必要に充てられる財源は、当該地方権力の判断によってアド・ホックに住民に課せられるにすぎず、