アレクサンドル・ソルジェニーツィンがゼムストヴォの再導入を唱えた1990年以降、これを目標とする政治運動がロシアの各地に生まれ、「ゼムストヴォ運動」と自称するようになった。こんにちでは、運動のナショナル・センターも存在する。しかし、その実態は歴史に実在したゼムストヴォについては無知な人々の集まりであり、その主な獲得目標も「身分選挙制の復活」という時代錯誤なものである。
5 共産党体制から行政府党体制へ
1990年以降ロシアを襲った激しい政治変動にもかかわらず、旧体制のある側面は保持された(正確にいえば、いったん危機に曝されたが、再び確立された)。それは、「法律上は分権的な体制を採用していながら、裏から『党』がおさえている」という側面である。ここでいう「法律上は分権的」とは、旧体制については「二重の従属」の建前を指し、新体制にっいては、憲法上宣言された連邦制と地方自治原則を指す。ここでいう「党」とは、かつてはもちろんソ連共産党であり、こんにちにおいては行政府党である。では、過去数年間に変わったのは何かといえば、裏からおさえている「党」の性格が変わったのである。ソ連共産党は、いうまでもなく、中央集権的な構造を有していたが、行政府党は、1996年大統領選挙におけるエリツィンのキャンペーンが示したように、州行政府エリートの緩やかな連合体である。与党が州エリートの緩やかな連合体であるという事実こそが、ロシアの連邦制の社会的な基盤をなしているのである。旧体制の崩壊後、州エリートがモスクワに対して著しく立場を強化したのに比べれば、よりささやかな変化であるが、市・「地区」レベルのエリートも、州エリートに対して、ある程度の自主裁量の余地を獲得した。その結果生まれた市・「地区」レベルのボス政治こそが、十月事件以降現出した上意下達の執行権力独裁が定着できず、地方自治制へと移行せざるをえなかった社会的背景をなすのである。
まず、連続性の側面に着目する。ロシアの地方行政府が政治的に中立的な官僚制ではなく一種の政党であることを直視せずに、こんにちのロシアの政治体制を理解することはできない。政党であることの最大のメルクマールは、選挙に組織的に参加することである。そして、こんにちのロシアの政治体制を民主主義体制から画然と分かつものは、国家公務員・地方公務員が、勤務時間中に職務権限を利用しながら、現存する政権のために選挙運動に従事しているという事実である。もちろん、民主主義国においてと同様、ロシアにおいても、公務員が勤務時間中に選挙運動を行なうことは刑法上、公務員法上、選挙法上禁じられている。ただし、民主主義国においては、この法律を破った公務員が処分されるのだが、ロシアにおいては、この法律を守った公務員が解雇きれるのである。ロシアの公務員はこの点で感覚が完全に麻痺しているため、外国人の面前でさえ自分が勤務時間中に選挙運動を行なっていることを隠そうとしない。