にいざかいが生じ、その後の事態を重視した朝廷が義俊の職を解いて松浦郡の一島の領有を許し、本間八郎義俊と名のって移住し、島の名を近江馬渡の庄にちなんで「馬渡島」としたという説、がある。
神功皇后の事績として住吉神社の建立、遣唐使・遣随使の事跡として島の西南にある大臣のとも石、秀吉の半島出兵のおり、主君の出征に間に合わず割腹のろしだいぱんしょした人々の八人墓、幕末に黒船監視のため狼煙台が置かれた大山(242m)の番所つじいしぴやだい※の辻、そして島の西側の石火矢台への大砲の設置跡などはその一端である。
本村地区は仏教、新村地区はキリスト教であるが、キリスト教の歴史は、寛政年間に幕府のキリシタン弾圧から逃れて長崎の黒崎村(現在の外海町)のキリシタン有右衛門がその子勘兵衛、孫元助ら7人と田平、今福を経て田尻に入植したのが始まりである。カトリック施設には教会、育児院、修道院がある。信者の南米ブラジルヘの積極的な海外移住の歴史もあり、一時はブラジルに94名の馬渡村をつくったこともあった。
藩政当時、流人の島として使われた歴史もある。
現在、行政区、自治会は3区に分かれているが、宗教儀礼以外は緊密に連携した島づくりが進められている。
※源義俊:源義家の甥、美浸の国近江口の城主、馬渡の庄に城を築いていた
※石火矢(石火箭)とは、?石片また鉄・鉛などを発射し、攻城戦に用いた弩(オオユミ)、?江戸初期、西洋伝来の大砲の称。
(ウ)自然・土地
対馬海流の影響で冬季も無霜地帯で比較的暖かいが、北西の季節風は厳しく、海洋の荒れる様は他の季節とは対照的である。
最高238mの山塊を有する起伏の複雑な地形の島で、玄武岩の海崖・海岸や透明度の高い海は美しい。景観は遠望、近望ともに秀逸で、特に、番所の辻からのパノラマ展望は優れており、遠く対馬、壱岐、平戸を望む。
植生は照葉樹が中心であり、島には野生化した山羊、渡り鳥の中継飛来地として野鳥が多く、ニホンキジ、セグロカモメなどもいる。海は回遊魚、貝類や海藻などの機根資源に恵まれている。
(工)人口・産業・島内交通・生活現境
平成7年国勢調査の人口は620人で、近年、減少傾向を示している。老年人口比率は19.8%、年少人口比率は25.6%となっており、年少人口比率は比較的高いが、高齢化も進行している。
主力産業は水産業及び農業である。水産業は生産額約6.4億円(平成5年)
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