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 馬渡島での離島森林活用事業(平成2〜6年度、佐賀県)による交流促進施設・キャンプ場・展望休憩施設・東屋などの整備、電源地域の交付金を活用した特産物加工施設(町)の整備、馬渡島(平成6年度、町、県支援)、加唐島・松島「島おこし事業」(平成7年度、町、県の支援)などが進められている。

加唐島(かからしま)

(ア)位置・航路

 呼子港の北西7.5kmにある南北に長い島で、周囲14.6h、面積2.81km2の島(外海・本土近接型離島)。面積では、玄海諸島のなかで馬渡島に次いで第2位、海岸延長では第1位で、佐賀県最北端の島である。
 航路は本土・呼子町から7.5km、時間にして20分。客船はかから丸45.0t((有)加唐島汽船)で、1日4便就航している。特に、本土側の航路発着所(桟橋など)が未整備である。

(イ)沿革・歴史

 神功皇后の新羅出兵の時、当時懐妊されていた皇后の着帯式(おぴっけいわい)が行われ、その浦がおびや浦という地名として残されている。
 日本書記によると、「雄略天皇5年(483年)夏4月、百済の加須利君が弟の軍君(こにきし)に自分の愛妾をあたえて日本に派遣、途中、この島で船を停め休養した時、妊婦が産気づいて男子を出産。この児は島で生まれたので島君(せぷねいおう※まきし)と名付けられ、後の百済の武寧王となる。百済人はこの島を主島(にりむしま)と呼ぶ」(以上、「鎮西町史」より要約)とあり、日本書記に出てくる程当時朝鮮半島との往来にこの島が利用されていたことがうかがえる。島の伝説にも百済人の集落があったと伝えられ(同上町史より)、古い開発史をもつ。
 以降、文禄3年の波多家(三河守)の断絶後重臣が隠れ住んだ歴史、対馬の宗氏が参勤交代中に難破し、島人に助けられた歴史?馬瀬の地名のおごり、加唐島宗姓のおごり)、唐津の殿様が“周囲三里の天然の一枚岩”と豪語した島の話など、歴史が豊かであるとともに、古くから“椿の島’’として知られている。
 
※武寧王については、123貢も参照のこと。
 

(ウ)自然・土地

 最高123mの山塊を有し、山地が海岸線に迫る玄武岩質の台地状の地形で、南の加唐、東の大泊の2集落を除いて周囲は切り立った海蝕崖に囲まれている。
 

 

 

 

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