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(イ)行政対応

 これまで、離島振興法関連事業の推進を軸に、基盤整備面で町、県の行政施策が講じられている。
 研修交流施設「めぐりあいらんどおがわ」の整備、小川島振興ビジョンの策定(平成3年3月)、漁業地域活性化対策指針(平成8年3月)などとともに、平成8年度には、小川島トライアスロン大会などの活性化事業が町、県の支援で実施された。
 
 

小川島(おがわじま)

(ア)位置・航路

 東松浦半島北端・呼子港の北6.5kmにある面積1km2足らず、周囲4.0kmの小さい島(外海・本土近接型離島)である。
 航路は本土・呼子町から航路距離6.5km、時間にして20分。客船は第二小川丸49.0t(川口汽船)が1日4便就航している。
 

(イ)沿革・歴史

 島の開発の歴史は明らかではないが、石器、貝塚の発掘があるので古くからむなかた人が住んでいたらしく、宗像三神をまつった田島神社が鎮座している。松浦拾風土記では「往古は無人島にて島中に池あり。竹林のなかに大牢住みて人を寄せざるよし。その半死しての後、池も埋み、おいおい人住む島となり、鯨組相続きて繁盛す」とある。小川島で捕鯨が始まったのは文禄3年、秀吉の時勢、寵臣寺沢志摩守の唐津築城の頃といわれ、紀州太地から多数の捕鯨業者を呼子に招致して技術移転を実施した模様である。以後、藩の保護もあって隆盛した。
 明治以降呼子村、下って呼子町に属し、大正元年に巾着網を創始、鯨漁、イワシ漁、イカ漁と展開し、漁業の島として今日にいたっている。
 特に、玄海捕鯨の地として著名で、「鯨見張所」、「鯨鯛供養塔」、「鯨骨切り唄」が往時をしのばせる。
 元禄期から明治初期まで8代、180年間鯨組を組織化して小川捕鯨の基礎を築いた人物として中尾甚六がいる。
 記録としては、安永2年木崎悠々軒の「小川島捕鯨絵巻」(肥前国産物図考)、寛しょうじまにざえもん帆、ぎょらんしょうろく政8年生島仁左右衛門の「小川島捕鯨絵巻」(鯨魚覧実録)、天保11年豊秋亭里遊の「小川島鯨銅合戦」、明治4年の暮れから捕鯨見物に出かけて大酒盛りをしたたかはしこれきよことを記した元内閣総理大臣高橋是清(当時は唐津藩英語学校耐恒寮の教師)の「自叙伝」がある。
 

 

 

 

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