同意識の生成、連帯による満足といった状態が生まれることも期待できる。このような点が、グローバリズムの「光」の部分であるといえるだろう。
3.グローバリズムの影
それでは、グローバリズムには「影」はないか。「影」は「光」と裏腹の関係で存在するであろう。まず第1に、機会の増大は、おおむね望ましいことではあるが、機会が増大したからといって結果まで平等になることはありえない。グローバルな機会の増大をうまく利用しきれずに、取り残される人々(あるいは取り残されたと感じる人々)が出てくるであろう。さらに、第2の利点としての交流の利益ということに対しては、交流から生まれる「紛争」という「影」もまた認識すべきであるとの議論が可能である。すべての当事者が交流の増大を常に歓迎するとは限らない。交流の増大がゼロ・サム的に捉えられるとすれば、グローバリズムの進展は紛争要因となるであろう。また、なんの制限もない交流は、特殊は撹乱要因に対してシステム全体を脆弱にするかもしれない。国境管理の低下によって、たとえば疫病の蔓延がおこるかもしれない。情報ネットワーク上のある種の攻撃行為が、ネットワークすべてを麻痺させるという可能性も排除できない。さらに、グローバリズムの状況から、人々の間にある種の連帯感情が生まれ、思想としてのグローバリズムが確立するまでに至った場合の、人間精神に与える影響にも「影」の部分もあるかもしれない。第1には、普遍主義的思想につきものの「偽善」、「独善」をどのように制御するか。グローバリズムの状況から短期的に不利益をこうむる人々に対する無視、傲慢をどうやって防ぐことができるか、といった問題が存在する。また、地球が一体であるとなった場合の、人々のアイデンティティのありようもまた、にわかに予測しがたいものがあるだろう。国家、企業、家族、その他のさまざまな集団が、グローバリズムの思想の中でどのように整序されるかによっては、人々のアイデンティティヘの混乱もまた生するだろうからである。