いう考え方である。また、これとはやや異質であるが、「環境グローバリズム」といった考え方も可能であろう。地球環境は一体であって、これの保護のためには地球を単位として考えなければならないというわけである。
しかし、思想面に限っていうと、グローバリズムがこれだけ云々されている割には、グローバリズムの思想は、それほど精緻化されているとはいえない。かつてのマルクス・レーニン主義には、(結局、人類の多くに不幸を与えたことになったが)世界を一体として考える思想がそれなりに整っていた。それに比べると、政治的経済的リベラリズムには、世界を一体として考えるための思想的道具が充分整備されているとはいえない。環境グローバリズムに至っては、単にそのような主張が存在するだけといってもよいかもしれない。
(2)状況としてのグローバリスム
第2の観点として、状況としてのグローバリズムということにも注目する必要がある。思想的にどうとらえるかは別にして、現実に、さまざまな意味において地球は一体化しつつある。しかし、状況としてグローバリズムといっても、すべての側面で均質に地球が一体化しているわけではない。たとえば経済や情報の一体化といっても、OECD諸国では極めて急速に進んでいるにしても、サブサハラや中央アジアの諸国などではそうともいえない。安全保障という観点からすれば、冷戦が終わって、かえって地球が一体でなくなったとすらいえるかもしれない。政治面でのグローバリゼーションも、それほど進んでいるわけではない。もちろん、NGOなどの活動によって、国境を越える「市民社会」の形成などということが可能性としてありうる状況になってきているが、それにしても、これは依然として「リージョナル」なレベルに止まっている。さらに文化という観点からいえば、「文明の衝突」といった見方が極端であり、アメリカ文化の影響が増えつつあるにしても、いまだにグローバルな一体化した文化が存在するとはなかなかいえない。
(3)制度としてのグローバリズム
グローバリズムの第3の側面として、グローバリズムの制度というものが考えられる。地球を一体として考え、これに対処するために作られた制度である。具体的にいえば、