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(6)今切湊(いまぎれみなと)・今切ノ渡し
 この事件では、『新居町史』によって江戸時代海洋海運や東海道の交通伝達事情がうかがえるのも貴重である。第一巻(通史編上)にある海難事故一覧表には享保三年から慶応三年まで百五十二年間の遠州灘新居関係の難破九十一件が上がっていることは、古くから「海の難所」の名の通りであった。
 今切の名は明応七年の大地震津波で浜名湖口が誕生(決壊)したことに由来するが、江戸時代は今切湊が新居関所(関所自体「今切関所」の名がある)とともに管理され、遠州灘を航海する東西廻船の寄港地であるほかに、浜名湖周辺の城米(しろまい)輸送の基地としても重要視されていた(第三巻、八巻参照)。新居筒山五兵衛の廻船は、ここを拠点として太平洋沿岸の大阪江戸間の物資輸送に活動した。その後遠州灘の砂の堆積により湊としての機能が低下したが、「今切ノ渡し」もまた、「船渡し」のあった東海道の難所でもあった。その様子は、弥次喜多の「東海道中膝栗毛」や、歌川広重の五十三次浮世絵でも知られるとおりであるが、参勤交代の大名行列も大船でここを渡ったのである(第一巻第三章「今切渡船」に詳しい)。
 ところで筒山五兵衛船の今切湊出帆は享保三年十一月だったが、その三年前の享保元年に、紀州の殿様(徳川吉宗)が八代将軍となる前は、江戸へ向かうときはこの「今切ノ渡し」を通っているわけである。後年、吉宗が江戸城において新居の平三郎達を前にした時、あるいは今切の風景を思い浮かべたかも知れないと想像すると、何かの因縁がないわけではない。なお、享保四年には朝鮮通信使が今切ノ渡しを通っている。
 今切ノ渡しの様子は、現在に残る広重の版画で見ることが出来る。広重のは文政の頃であるが、当時の今切は、昭和以後現在のよほど西に位置し、それは広重の絵でも窺われる(うかがわれる)。今切はその後、砂の堆積(たいせき)で東に移動して、昭和二十年代には遂に現在に突堤を築堤し、河口を定めたのである。文政の頃の広重の絵から推定すると、現在の新居弁天南端で、丁度、今「タカボタ地蔵」【註3】のある場所に当たる。その一帯が享保当時の湊口だったと考えられる。天保七年(一八三六)讃岐丸亀の久米栄左衛門(通賢(みちかた))によって書かれた湊口改修の場所にも該当し、その図面(第一巻七四一頁)がある。
 
【註3】ボタは当地の方言で、「盛り上がった場所」。新居海岸の浜沿いに良くあった。その高い所にある地蔵で、江戸時代の海難者を祀ったものと言われる。
 
(7)鳥島・八丈島・小笠原諸島
 鳥島は東京から南へ五百六十キロ、面積四百五十四平方キロであるから面積は伊豆の大島の半分ぐらいの大きさの全山岩山。外輪山、内輪山の二重式火山島である。海上から見ると三つの峰(最高峰四百三メートル)が見えるので古くは三子島(みねじま)の別名があったという。なお、『新居町史』第四巻所収の「元文四年 無人島漂流者口書」には漂流者達によると思われる、三つの峰を持つ島の簡略図が描かれている。
 江戸時代の新居の船の遭難では、享保・元文の甚八達の他に、文化五年(一八〇八)十一月、掛塚港を出た源太山町漁師与兵衛ほか二名が渥美半島沖で遭難、遠州灘から八丈島末吉村へ流れ着いたことがある(新居への帰還は翌六年八月)。
 享保・元文の新居人のは、八丈島についての口述があり、「味噌はなく、塩辛を食べている。豆は少々あるが、味噌にするほど無いので・・・」、「風俗は慈悲深い土地で人は直道(人としての正しい道)を守っている・・・」、「全体として鷹揚なところで、洗濯物などをこちらの岩、あちらの岩に干し置いても紛失しない・・・」等、八丈島の人情風俗について現代先般までの伊豆諸島の村々に通ずることか述べられていて興味深い。
 八丈島から江戸までの距離、道のりは、甚八達と大阪船の人達合わせて二十人が、自分達で修復した伝馬船で鳥島を発ったのが元文四年四月二十九日、八丈島三根村へ着いたのは五月一日だった。島役所での取り調べを終え、丁度、御赦免となって江戸へ帰る罪人達の御用船に便乗して、八丈島を出帆したのは五月十五日で、江戸の手前の浦賀へ入港したのは十九日である。驚くべきことに、電話がない時代でも五月十六日には郷里、遠州新居の奉行所に漂流者救出の一報が届けられていた(『新居町史』第五巻)。八丈島出帆時点に下田奉行所を通してでも新居に伝えられたのだろうか。なお、このあと文化六年に新居の漁師が八丈島に漂着して江戸へ送られた時【註4】は、八丈島から江戸への船は六月十五日八丈島を出帆して十八日暮れに江戸湊へ着いているので、その時は四日かかったわけである。
 本書に「資料」として紹介する『豆州志稿』は、伊豆長岡の国学者秋山文蔵編纂の寛政十二年(一八〇〇)成立の地誌であるが、その一部をなす『南方海島志』に、漂着者・新居の三人の名が登場するのも意外で、そのとき鳥島が小笠原諸島にあると考えられていたことが注目される。小林氏書には、その小笠原父島にある咸臨丸墓地(文久二年=一八六三・幕末の咸臨丸乗組員死者の墓地)に、鳥島での新居船の死者九人の佐太夫達を中心とする「冥福碑」があって、その写真が掲載されている。遠い小笠原の地に「遠州荒井」の銘が残されていることに感慨が深い。新居の名が、江戸時代早く、鳥島で死んだ人達を通して小笠原の日本領有に関連づけられるものかと思うと意義深いことである。
 鳥島はその後、明治二十年(一八八七)、八丈島の玉置半右衛門(その頃、更に南方の大東島の開拓者でもあった)、小花作助らによって米国輸出のアホウドリの羽毛採取が行われたが、明治三十九年の鳥島大噴火によって開拓民百二十五人もろともアホウドリも全滅したことで知られている。鳥島噴火はその後昭和十四年にもあった。
 
【註4】本書「三、資料」新居町方記録を参照
 
(8)アホウドリのこと
 「鳥島」の「鳥」はもちろんアホウドリのことである。江戸時代の海で見ていた北奥の漁師達はシカメと言っていたらしい。享保・元文の新居の漂流者や、寛政の土佐の長平達はこの鳥を命の綱として何年をも生き延びたのであった。島は古くからのこの渡り鳥の繁殖地で、明治十年(一八七七)の、開拓者、小花作助によるコロニーの写真によると島を埋め尽くすほどの様子が見て取れる。次は「百科事典」アホウドリ(ミズナギドリ目)の項目。
 
 若鳥は黒褐色で、成長につれて白くなる。海洋を生活の場とし、イカやタコ、魚、甲殻類を餌とする。繁殖は二年に一回で、草のほとんど生えてない、火山灰の急斜面を利用する。ヒナは黒褐色で、約百八十日で巣立つ。北太平洋に分布し、羽毛をとるために乱獲され、絶滅したとされたが、一九五一年に再発見された。保護策が実り現在の棲息数は、千二百羽を超えると推定される。鳴き声はヴァーァー。全長八四〜九四センチ。翼開長二一三〜二二九センチ。分布:北太平洋。●伊豆諸島の鳥島、尖閣諸島で繁殖(留鳥)。
 
 なお、アホウドリについては海鳥研究者長谷川博氏(東邦大学理学部助教授・海洋生物学研究室)著『風に乗れ!アホウドリ』(フレーベル館・一九五五)がある。同書は大判の写真本であるが、太古以来変わらぬ鳥島とアホウドリが、美麗なカラー写真と児童向けの優しい文章で、手に取るように描かれていて、漂流者を偲ぶとき感無量である。次は同書の一部。
 
 鳥島は、太平洋に浮かぶ小さな無人の火山島です。ほぼ円形をしていて、高さ三九四メートル、周囲はおよそ六・五キロメートルです。昔この島は秋から春までの間、白いアホウドリの群れで埋め尽くされていました。その様子は、雪の降ることのない南の島に雪が積もったようだった、と言い伝えられています。「鳥島」という島の名前は、数え切れないくらい沢山いたアホウドリにちなんだものです。だから本当は「アホウドリ島」なのです。
 そんな鳥が、いっぱいいて、それを捕まえるのはとても簡単でした。アホウドリは体が大きくて重く、翼が長いため、斜面を駆け下りたり、風に向かって走らないと飛び立てません。ですから、人が斜面の下から上に向かって追い上げたり、風上から迫ったりすると逃げられなくなります。そうした時、頭や首を棒で叩くだけで殺すことができたのです。
 
 「甚八・仁三郎・平三郎」の話は昭和五十二年、岩崎書店から子ども向けの絵本『アホウドリの島』(河村たかし著・武部本一郎絵)にもなっている。この本には「新居」の地名はないが、わかりやすい文章とすばらしい絵で、見事に表されていることをここに紹介させて頂く。


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