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(4)新居という土地、新居という地名
 東海道新居宿は、歴史の由緒ある町。鎌倉時代の源頼朝、室町時代の明応七年(一四九八)の大地震・津波、江戸時代前の徳川家康、宝永四年(一七〇七)の大地震・津波等に関わる伝承が、今でも地名と共に生きている。それらが住民の間で、学校等の知識でなく、先祖、親達からの口伝えで言い継がれていたのである。そのキーワードは「地名」【註2】にあった。
 「新居」の地名は、十返舎一九「東海道中膝栗毛」や歌川広重「東海道五十三次」(保永堂版)では「荒井」の名で記されていて、「鳥島漂流」関係の文献でも「荒井」とあるので、それが「新居」の古い正式名称だと思う人が多いかも知れない。しかし、奈良・京都および地元新居の文献には、江戸時代になってからも「新居」が書かれている。
 『地名が語る新居』(文化財のしおりシリーズ4・一九八一・新居町教育委員会)では、「地名アライの分布」の項で、全国にはアライの地名が一四一あり、その文字の使い方に際立った違いがあって、西日本は広島と兵庫に計二地点、関西や奥羽地方にはなく、すべて中部地方と北陸・関東に限られるものであることを明らかにした。
 その中で、「荒井」「新井」はおおよそ関東東山地方で使う字で、「新居」は中部地方の愛知と山梨で使う文字(一七地点)であることがわかる。つまり、方言と同じような地域性が「文字遣い」にもあったのである。
 新居町の「新居」は、奈良時代の正倉院文書にも出ている古くからの名であった。それを「荒井」と書いたのは江戸など東の人に限られていた。西では江戸時代でも「新層」と書かれた。大阪の人織田作之助が「漂流」の中で「荒井」の文字を使っているのは、江戸の文献を元にしていたからで、地元ではこの漂流関係の記録でも「新居」と書いている(「新居町方記録」参照)。
 小高い丘の松に登って物見(周囲の地理地形を見渡す)をしたという梶原源太景時の名を冠した「源太山(げんだやま)」、地震によって浜名湖が外洋と繋がったことを表す「今切(いまぎれ)」、徳川家康がそこから浜名湖を渡ったというその事ずばり「権現(ごんげん)」(所在は中之郷)、宝永四年(一七〇七)の災害を受けて全町移住の結果生まれた「大元屋敷(おおもとやしき)」(地籍名は元新居(もとあらい))はすべて現存するその種の歴史地名である。なお、「源太山」は「山」と言っても標高五十メートル足らずの丘で、鎌倉時代その当時ではなく、後年(宝永四〜五年)、関所と共に社寺、住居の全宿移住によってその麓に家並みが作られた時に、その丘の麓(源太山町の住民は、丘のことは「源太(げんだ)の山(やま)」という)と共に町名がつけられたと考えられる。
 享保三年(一七一八)、筒山五兵衛船で新居湊から出帆した平三郎達は、幕府の援助によって新しい場所に移住し暮らし始めて日の浅い避難者だったのである。彼らが帰還した時「源太山」町はまだなく、当時は「舟町」(南舟町。源太山はその後の町名)だったと思われる。
 日本でR・クルーソー物語がもてはやされた昭和初期、織田作之助によって小説化された三人の話は、新居では地名ではないが、江戸時代から続く「源太山」町内各戸につけられている伝承屋号(ヒコナ)の一つとなって残されていた。
 新居町家々の伝承、口伝ともいうべきヒコナは、各町内ごとに「〜尽くし」のようなヒコナ唄が作られ、子供の間でも町内一軒一軒のことが知られていた。
 それは新居町新居の名物で、田町(別名、俵町)、西町、源太山の町内には「〜尽くし」のように綴る唄もあった。特にフシはなかったが、子供がそれを囃して口ずさんだ。ヒコナの中には二百年ぐらいかと思われる先祖の名前や古い方言が存在する。
 源太山では、今でも「イナバ、ボーシュー、くにゃ(国は)トーケンサ、源太山じゃー軒並べ、オーデンコデンと、タイコーボー、ハチジュの魚をカラオケ入れて、サルバメ食ってサンシ十二」などと唄うことがある(因幡サ、房州サ、トーケンサ、大伝サ、小伝サ、オタイコサ、ハチジューサ、カラオケ<空桶>サ、サルバメサ<槙の実の方言サルマメの訛りか>、サンシーサ<三四郎>が入る)。
 この源太山に、唄に入っていないがシマジューサと、シマトーサがあった。シマトーサをシマヘビサあるいはシマヘーベサと言う人もあった。「島蛇サ」と覚えていた人もあるが、シマヘーベサの名は「平三郎」が帰郷した元文四年(一七三九)以後ついたもので、ヘーベーの名は、元治元年(一八六四)の新居宿図(住宅地図)にある「平兵衛」と照合するから、「平兵衛」は「平三郎」が帰ったあとの跡継ぎの名であろう。平三郎は浦島太郎のように帰っても、その親類知人は多く死んでいて(母と妹は生存)、周囲の若い人も顔を知らなかったから、気安く「あだ名」がつくということも無かっただろう。シマヘーベサ、シマヘビサは「あだ名」で、シマトーサのトーは、その後の養子「藤吉」のトーだということである。イエナは一軒一軒、それぞれその家ごとの由来があって、不確かなまま子供達に言い継がれていたようである。普通は人名、職業、出身地だが、訛っていたり、面白おかしくもじっていたりするので正しくは分からないこともある。少なくとも私はその中でシマジューサ、シマトーサは「島に十年暮らしていた」ということで覚えた。正しくは二十年だが、とにかくその名で島のことが言い伝えられたことになる。
 しかし、ヒコナの由来話は、年を経るに従って所詮噂のようなものとなって、近年、周囲の都市化の空気と共に、代々の住民も入れ替わると、例えば町内のお祭りを一緒にやった生え抜きの家々も、古い呼び名も、それにまつわる噂的な昔の記憶など、それを言う人が少なくなった。例えば私は小さい頃、「島云々」を、祖母から聞かされていたが、今は当の近所でも由来を知らない人が多いそうである。それでも、そのことは、詳しくは知らないままヒコナを通じて皆が知っていたし、昔の人はもっと知っていた。が、人々の意識が変わった今はそういうこと自体が疎まれるようになった。
 シマトーサには、元、由緒ある書き付けがあったという事であるが、太平洋戦争を挟んだ家の改築の頃から失ってしまったという。シマジューサの方は代変わりとともに、家も新築して源太山町を出、何故ジューなのかを今は元の近所も知っている人がいない。昔はそんなことに詳しい「物知り」がいたものだけれど、そんな私の知人も二十年前に死んでいる。近くのジンパッツァという家は、町の古図にある甚八郎かとも思われるから、漂流者の甚八かどうかは分からない。その家には桔梗の紋(吉田城主松平伊豆守信祝の家紋か?)付きの印籠があったというが、今はないということである。そのように昔のことはとかく不確かといわざるをえない。その中で現存する「島トーサ」だけが貴重な例と言えるが、それをそこに限らず自分の家で恥ずかしがって言わない人も増えたので、そのうち新居のヒコナも消えると思われる。新居の人は多く半農半漁、浜名湖今切の船渡し人足だったりして、古いモノを失った中、残っていた言葉・伝承もこれからは消えると思うのでそれをここに書き記しておきたい。
 新居町泉町(別名は城町・・・関所町のこと)では、難船して船(鹿丸)を失った主、筒山五兵衛家が、その後、旅籠「萬屋(五兵衛)」として江戸時代元治元年の図では新居関所西に「紀伊国屋」と並んで五十三次の旅籠街を形成していた。筒山家は現存していて、元芸妓置屋「萬屋」として親しまれたが、遭難に関する伝承は全くない。
 
【註2】新居町文化財シリーズ4『地名が語る新居』(一九八一・新居町教育委員会)参照。なお、昔の新居の人が言った地名で、今言わなくなった言葉にトートーミナダ(遠江灘・遠州灘のこと)、オーブネワンダ(廻船が入る湾・国道南、今の表浜名湖西の一帯)がある。完全に忘れられる前に、ここに書き留めておきたい。
 
(5)日本人の太平洋漂流
 日本人の太平洋漂流と言えば、土佐のジョン万次郎、ジョセフ彦蔵が有名で、それに関する書物も沢山ある。享保・元文の新居の漂流者についても平成二年(加藤貴編「日本近世漂流記年表」)までに十二編の研究書が上がっている。日本に帰らぬ難破遭難者も当然あっただろうが、記録では南洋でボルネオ、ルソン、琉球、北の下北、北海道やカムチャツカ半島まで知られていて、鳥島漂着についてだけでも十七例が数えられている。新居人の漂着二年後に同じく鳥島に難破漂着した無人船の人達はどこの人だったのかも、全く知られていないが全員死亡していたのだろう。新居人の場合も、新居出発時十一人、宮城県仙台からの便乗者(伊豆松崎町岩地の人)を含めて十二人の内、悲惨な自殺者を含めて九人が死んでいる。このような明暗様々な史上の漂流事件を知ると、飛躍して、有史以前の古代人の航海はどうだったか、仮に丸木舟で渡ったと考えられる、伊豆の八丈島への渡海は、どこからいつどのようにであったか、渡ってからの衣食住はどう確保されたかとまで思い至る。そのとき、古代人ならぬ江戸時代人だった新居の三人の、孤立無援の鳥島二十一年の生活体験は、得難い参考事例である。
 新居の事件を紹介した本は少なくなく、織田作之助以後も、荒川秀俊氏による『日本人漂流記』(人物往来社・一九六四)、『異国漂流物語』(社会思想社・一九六九・現代教養文庫)、山下恒夫氏『江戸漂流記総集』(一九九二)があった。新居人鳥島二十一年の記録について、最近の小林郁氏『鳥島漂着物語』(成文堂書店・二〇〇三)では、絶海の孤島生活として日本最長であると言われた。山下恒夫氏は(日本評論社・一九九二『石井研堂・日本漂流記』再編)で、「江戸版浦島物語」と言い、昭和三十九年の福岡気象台長荒川秀俊氏は「超人」と表現された(法政大学出版局・一九六九『近世漂流記集』)。虚構のロビンソン・クルーソーの二十八年とは比較にならない。小林氏書は、この事件について国内の多数の資料に当たられて、現地小笠原島、鳥島、八丈島に止まらず新居町にまで足を運ばれた、大変な労作である。本稿もこの書に依存するところ多く、私もこれによって身近にその全貌を知ることが出来た。
 新居人の鳥島漂流については、江戸時代にも一般人の間で広められた。江戸幕府役人で、のち京都所司代与力となった神沢貞幹(社口)の『翁草(おきなぐさ)』、有名な江戸の随筆家、大田南畝(なんぽ)(蜀山人(しょくさんじん))の「享保三年無人島へ漂着之談」、当時の戯作で、想像の女護ヶ島(にょごがしま)に模せられた荒唐無稽「遠州荒井船吹流シ帰国物語事」等によって、江戸中村座の芝居にもなった。
 罪により流人となった後も八丈島に住んで貴重な地誌を残した近藤富蔵も、その『八丈実記』の中で新居の三人のことを述べている。私は、昭和三十五年頃、伊豆大島在住の民俗学者、坂口一雄氏から新居の筒山五兵衛家の消息を聞かれたが、良く知らなかったため満足な答をして上げられなくて氏の失望を買ったことを恥じた。坂口氏は『八丈実記』や新しい『八丈島史』で知っておられたのに、地元の私が何も知らなかったのである。私は新居におけるヒコナ等による伝承を聞いていただけだった。
 元文四年三月二十九日遭難した江戸・宮本善八船(船頭富蔵は大阪出身)の庄兵衛、八右衛門が、洞窟で最初に仁三郎(甚八、平三郎は稲の見回りで出ていた)と、最初に出会った時の様子は、実に劇的で、洞窟にいた漂着者の身なり体つきがあまりにも異様で、鬼神のようだったと述べている。そこで双方が物(鉈、杖)を構えて向き合ったところ、やがて新居人の言葉が日本語だと通じて同じ国の人間だと分かり合ったという。それから皆が丁度一ヶ月を暮らして、島を出るとき、「この後も来る漂着者のために残してやる」と言って、島で作っていた米の籾と、大阪船の持っていた鍋、包丁、火打石を、洞窟へ残して置いたという。
 事実その島を去った十四年後の宝暦三年(一七五三)、またも鳥島に漂着した泉州箱作(はこつくり)村(大阪府阪南市箱作)鍋屋五郎兵衛の廻船(紀州の蜜柑船?)の五名内二名(三名は死亡)によって発見された遺物によって、二名が宝暦九年(一七五九)江戸へ帰るまで持ちこたえたという。その頃、鳥島周辺では遭難事件が幾つかあって、遭難者同士が鳥島で遭遇するということもあったのである。
 鳥島についてはその又三十二年後の土佐の長平が有名で、故郷高知県香美(かみ)郡香我美(かがみ)町には銅像がある。長平は天明五年(一七八五)一月、五人乗りの廻船で室戸沖で遭難、太平洋で十四日漂流して鳥島に着いて上陸した。その後、天明六年九月までに四人が死んで、天明八年二月、新規の漂流者となった大阪船の十一人と合流するまで、その時も新居の人達の残した桶などが使えたということである。その間、長平がたった一人で一年半暮らしたというのも驚嘆に値する。その後も寛政二年(一七九〇)一月末、新たな漂流者日向志布志浦(ひゅうがしぶしうら)(鹿児島県・宮崎県境)の住吉丸六人が加わって総勢十八人となってから、ついに手作りの船の建造を開始、寛政九年(一七九七)六月、鳥島を脱出、青ヶ島、八丈島に立ち寄った上で江戸へ帰還したのは九月だった。最後の生存者十四人、長平を中心とする無人島漂流体験記録は地理博物誌として貢献した。その間は多く、新居人と同じように島に無数いたアホウドリを殺して食べ、衣類として羽根を綴り、それを命の綱としていたという。
 新居関所に保管されていた新居奉行所届書には、故郷へ帰還した三人の動静について、伊勢参宮、浜松秋葉神社参拝や家の新築から、何日に何月分の扶持米を与えた事から、風邪を引いた、医者に診せた、回復したに至るまで記録されている。例えば扶持米一人一ヶ月一斗五升は、今の人だと約三ヶ月分で、相当の優遇に当たる。まるで昭和の代に帰還した横井庄一氏、小野田寛郎氏のように迎えられ、保護されたわけである。
 元文四年(一七三九)五月に帰郷した三人は、甚八元文五年十一月六十八歳、仁三郎寛保元年(一七四一)六十三歳、平三郎寛延三年(一七五〇)後、五十三歳(以上?)で死去した。これには、新居関所に保管されていた、江戸時代新居の詳細な町内記録がある(『新居町史』第五〜八巻)。


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