日本財団 図書館


2001年1月号 中国21
日中台関係への新視角
井尻秀憲
(東京外国語大学教授)
はじめに
 日中、日台関係に関する新たな視角が求められている。それは、従来の「親中国」「親台湾」という二元論で物事を考える傾向からの離脱であり、そこでの新しい概念化が必要となっている。すなわち日本はこれまで、日中関係における日本の立場を堅持・強化する手段の一つとして日台関係を扱ってきた。しかしながら、そうした日本の外交姿勢は、たとえそれが「善意」であったにせよ、「意図せざる結果」として逆に日中関係を悪化させ、対中政策における「悪循環」にはまってしまう傾向が強かった。
 加えて、以下に述べるように、中台両岸関係は、双方の「密使」外交や両岸経済交流の進展などで、直接接触できる状況が生まれている。台湾海峡の安全保障に関心を示す日本政府は近年、予防外交(preventive diplomacy)の一環として日中関係における台湾問題の平和的解決を促そうと考慮し始めているが、それはあくまで、中台双方が直接接触を行なっていることを知らされないなかでの外交努力である。
 そうしたなかで、台湾の民間紙『中国時報』(二〇〇〇年七月一九日、二〇日付)が、中台両岸問題に関して興味深い報道を行なっている。それは、中台双方が、台湾の李登輝前総統就任直後の一九八八年四月から九二年六月の間に七回にわたって「密使」派遣という極秘のチャネルと方法による政権中枢同士の直接接触を行なっていたということである。
 この問題に関する情報は、当面は台湾民間紙の報道と李登輝・邱永漢対談(『中央公論』二〇〇〇年一〇月号)が筆者の手元にあるだけで、その信憑性や中台「密使」派遣の背景などについて吟味する必要がある。ただ、同紙によれば、アメリカのワシントンに三年ほど隠居生活をおくっていた南懐瑾が香港に滞在していたとき、中国の全国政治協商会議常務委員で国民党革命委員会副主席の賈亦斌が、中国の「対台湾工作指導小組」の組長であった楊尚昆国家主席(当時)の代理人(同「小組」弁公室主任)である楊斯徳を香港におくり、「北京が台湾の李登輝総統との直接接触を希望している」旨を伝えたところから物事が始まっている。
 そして、これに対して台湾側は、九〇年の時点で、李登輝前総統の秘書であった蘇志成が香港を訪れ、南懐瑾らと密かに会見し、そこで蘇志成が李登輝前総統の意向を伝えて、そののち南懐瑾は極密に台湾を訪れ、李登輝前総統と会見したという。
 この「密使」事件は、九二年六月一五日まで続き、主として九二年の第一次汪・辜会談のための根回しのために行なわれたとされ、同『中国時報』は関係者の会見現場を写真付きで明らかにし、李登輝前総統は前記の邱永漢氏との対談で大まかな点について触れている。また、このチャネルは、九四年以降は、中国の曽慶紅(現・組織部長)と台湾の蘇志成(現・台湾総合研究所副所長)との接触に発展したとされるが〈1〉、この問題は、台湾の国民党幹部、国家安全局レベルにも知らされておらず、まさに中国・台湾の指導者とその周辺による個人的な直接接触と解釈することができる。
 政権担当間もない李登輝前総統にとって、第一次汪・辜会談のためにこういった根回しが必要であったということは、これを敷衍すれば、先の二〇〇〇年三月一八日の総統選挙で辛勝し、五月二〇日に正式に就任した陳水扁新総統にとっても中台対話の再開に向けて、こうした水面下の根回しが必要となり、現在それは進行中と考えても不思議ではない。
 本稿は、以上のような中台両岸の直接接触が、歴史を振り返る際にも台湾の蒋家時代、日本の吉田外交などにも見て取ることが可能であり、第一にそうした歴史のなかでの日中台関係、第二に先の台湾総統選挙での陳水扁辛勝の要因、第三に陳水扁新政権の現状と今後、第五に陳政権に対する中国側の見方と「一つの中国」原則に関する中台の立場の相違、そして最後には、それに対応すべき日本外交のありかた(とくに予防外交)などについて、論じてみたい。
一 歴史のなかの日中台関係
 ところで、中台両岸の「密使」や「書簡」による接触は、蒋介石が一九五〇年代末から六〇年代において、中国共産党幹部に対して「密使」や「書簡」をおくっていた点に見ることができる。そうした中台直接接触の具体例としては、六四年にフランスが中国を承認し、台湾との外交関係を断絶した際などにおいて双方の直接接触が存在していたことなどであり、それは台湾の外交官の回顧録などによって実証可能となっている。
 また、蒋介石から権力を受け継いだ蒋経国においては、中国との直接接触の可能性は指摘できるものの、それを資料的には裏付けることはいまだ不可能だといわれる。ただし、蒋経国は、中国とのいわゆる「三不政策」(接触しない、交渉しない、妥協しない)や「漢賊並び立たず」(中国とは接触しない)といった台湾側の表向きの原則があったにもかかわらず、対米関係の強化を図るために「対ソカード」を用いていたようである〈2〉
 一方、日本においては、戦後のサンフランシスコ講和会議や日華平和条約が締結される際に、吉田茂が日華平和条約の適用範囲を台湾とその周辺の島々に限定し、中国大陸の共産党政権との関係をいずれは改善しなければならないと考えていたことが想起されうる。周知のように、サンフランシスコ平和条約締結の際に、連合国のあいだでは中国代表を北京政府と台湾政府とのどちらにすべきか意見が分かれたが、吉田は将来の中ソ関係の悪化を予測し、前記のような中国大陸との改善への布石を打とうとしていたのである〈3〉
 こうした吉田の「二つの中国」といった発想を基礎にしたいわゆる「二重外交」の現実は、最近公開された日本の外交文書において明らかとなり、ここにも新たな視角による日中、日台関係に関する歴史の再検討が必要となっている。すなわち、同文書によると、アメリカのダレス国務長官(当時)は、「国民政府との二国間条約(日華平和条約)を結び、中共政権とは結ばない」と約束する書簡(一九五一年一二月四日付)を吉田に書かせたが、その吉田はわずか四日後に「独立国日本は独自の中国政策を持たざるを得ない」と書いた無署名の書簡を当時の連合国最高指令長官に手渡しており、「二つの中国」といった認識をもつ将来の政策への布石を打とうとしていたようである〈4〉
 さらに池田内閣が「政権分離」の方針のもとで中国との貿易を再開した一九六四年当時、台湾の国民政府がそうした日本の政策に強く反発したため、池田は極秘に「大陸反攻」への支持を約束し、「二つの中国」論に基づく「二重外交」を展開し、そうした台湾との仲介役を吉田が担っていた事実も今回の文書で明らかになったという〈5〉。つまり、池田内閣時代での吉田の発想としては、中国と外交関係を結んでも、台湾との外交関係を切る気持ちがなく、政策として前記の「二重外交」を展開しようとしていたのである〈6〉
 さらに、門外不出といわれてきた『佐藤栄作日記』(朝日新聞社、一九九七年)が出版され、七二年の田中外交による日中国交を可能とする対中関係での「瀬踏み」が佐藤政権末期になされていたことはよく知られているが〈7〉その佐藤自身も、そうした吉田の「二重外交」について吉田から知らされていた可能性が高いことが台湾側の資料で明らかになっているという〈8〉
 こうして、戦後の日中台関係には、前記のような新たな資料の公開によって、より新しい歴史解釈と分析、記述が必要となっている。
二 陳水扁辛勝の要因
 ところで、議論がいささか相前後するが、二〇〇〇年三月一八日、台湾で総統直接選挙が行なわれ、民進党の陳水扁・元台北市長が当選した。この総統選挙は、一九九六年の台湾海峡危機のなかで李登輝総統が当選した総統直接選挙に続く二回目の出来事であり、五十数年来にわたって政権の座にあった与党・国民党が下野し、政権交代が実現するという歴史的選挙であった。また、現職総統(李登輝)が存命のまま、民主選挙で政権交代が実現したのは、台湾政治史上、これが初めてである。
 こうした選挙の意義は、二回目の総統直接選挙において政権交代が実現し、台湾住民が長年続いてきた国民党国家体制とりわけ「黒金政治」(政治家、企業家、暴力団などの癒着による金権政治)の抜本的変革を求めたという意味において画期的なものであり、国民党国家体制の「終わりの始まり」といえる。さらに、中台関係においてはこれまで、中国が国民党との「平和統一」に向けた対話要求を促してきたが、この選挙結果は、国民党の与党への転落によって、中国にとっても「国民党と(中国)共産党」との「国共合作」「国共内戦」というロジックがもはや通用しない歴史的出来事となった。
 そうしたなかで、先の総統選挙の結果は、陳水扁の辛勝、宋楚瑜の肉迫、連戦の大敗となって表れたが〈9〉、この選挙において陳水扁が当選した要因として、以下のいくつかの点が指摘できよう。
 まず第一に、与党・国民党が連戦と宋楚瑜に分裂し、選挙が「三つ巴の泥沼の仁義なき戦い」となったことによって、民進党公認候補の陳水扁に勝利の目が出た点である。民進党はかつて、九七年一一月末の地方県市長選挙において、国民党の総得票率を一%上回る四三%を獲得したことがあるが、この選挙での陳水扁の得票率(三九・三〇%)はそれにも及ばないぎりぎりの線であった〈10〉。したがって、もし国民党が分裂せずに連戦と宋楚瑜でまとまっていれば、このような与野党政権交代はありえなかったといってよい。
 第二に、既述のような国民党の「黒金政治」が台湾住民の反発を招き、連戦を公認候補に立てた国民党ではそうした旧態依然たる問題点を改革する自浄能力がもはやないと台湾の有権者が判断した結果、台湾が生んだ土着の台湾人政治家で「台湾の子」と呼ばれ、クリーン・イメージをアピールした陳水扁に「黒金政治」の変革を、期待したということであろう。
 第三に指摘しうる重要な点は、選挙戦の最終段階に入った三月一〇日、台湾唯一のノーベル賞受賞者で「台湾の良心」とも呼ばれる李遠哲・中央研究院院長が数名の人達とともに陳水扁支持にまわり、陳水扁が当選すれば国政顧問団を形成して陳水扁を支援すると明言したことである。しかも、その二日後の三月一三日、陳水扁がそのグループの一人であり李登輝前総統とも親しい財界人である許文龍・奇美実業会長を訪れ、その場で両者揃って記者会見を行ない、許文龍が「李登輝路線の真の継承者は陳水扁である」と発言したことが台湾のテレビ、新聞各紙で大々的に報道された〈11〉
 このいわゆる「李遠哲・許文龍効果」は、陳水扁の当選に決定的な影響をもたらしたともいえる。中国をはじめ外部の観察者の一部には、こうした動きを李登輝前総統の「権謀術数」によるものではないかと推察する向きもあるが、筆者は、必ずしもそうした説に同意できない。もとより、李遠哲らのこうした動きは、選挙戦の最終段階以前から見えていたものであり、そうした情報は李登輝前総統にも届いていたはずである。
 しかしながら李登輝前総統は、こうした動きを積極的に阻止しようとしなかったし、むしろこの「李遠哲・許文龍」グループの決断は、選挙戦の最終局面で、実は宋楚瑜が陳水扁をおさえて一位で当選する可能性があるとの危機感が民進党や台湾人政財界に走ったことに対応したものであったといえよう〈12〉
 だとすれば、このグループの連戦離れと陳水扁支持の動きは、選挙結果にも表れたように、宋楚瑜の肉迫に対するものと理解したほうがよいのかもしれない。「李遠哲・許文龍」グループの行動は、三月一八日の投票日の約一週間前であり、宋楚瑜、連戦の両対抗陣営に反撃の行動を起こす時間的ゆとりを与えないぎりぎりのタイミングで切られたカードであった。筆者が、陳水扁当選を決定づけた最も重要な要因とする理由はここにある。いわゆる「棄保論」(Aを棄ててBを守る)という投票行動でいえば、台湾の有権者はこのとき、「連戦を棄てて陳水扁を守った」ということになろう。
 そして、最後に述べるべき第四の点は、やはり中国ファクターである。すなわち、中国は、二月二一日、いわゆる「台湾白書」(「一つの中国の原則と台湾問題」)を発表したが、台湾側が無期限に中国との対話に応じないならば、「平和統一」から転じて「武力解放」の可能性もありうるといった「文攻」(文章による攻撃)を行なったのである〈13〉。さらに中国では、選挙の最終段階において、三月一五日の全国人民代表大会(日本の国会に相当)記者会見において、朱鎔基首相が、陳水扁を名指ししたわけではないにせよ、「誰が総統になろうとも、台湾独立は許せない」といった「恫喝」ともいえる発言を行なった〈14〉
 だが、こうした「台湾白書」に続く朱鎔基発言に対して、台湾住民は恐れるよりも強く反発した。そして、こうした朱鎔基発言は、台湾の選挙にどの程度の影響をもたらしたかについて測定することはできないものの、台湾の有権者が投票の局面で陳水扁を選択するという、中国にとっては逆効果となった観は否めない。もとより、そうした台湾住民の心理的背景として、アメリカが空母キティホークなどを横須賀から台湾近海に派遣し、議会が「台湾防衛強化法案」を可決したように、台湾の民主選挙の遂行と台湾海峡の安全に関与しているアメリカの存在があったことも忘れてはならない。
三 陳水扁新政権の現状と今後
 ところで、陳水扁は三月一八日、当選後の記者会見で、「人民の勝利、責任の開始」と題した発言を行ない、そこでは民進党関係者のみならず、李遠哲・中央研究院院長および国政顧問団の「勇気」に感謝すると述べた。この「勇気」発言は、既述のように、陳水扁の勝利に大きく貢献した「李遠哲・許文龍効果」を想起するとき、興味深い意味合いをもっている。
 陳水扁はまた、内政面での選挙公約として、「民進党の総統ではなく、台湾人民全員の総統であって、民進党の党務にかかわらない」超党派の「全民政治」を目指すと述べてきたが、立法院では、総議席数二二五のなかで、国民党一一九、親民党一七、新党を合むその他二三に対して民進党は七〇議席しかもっておらず、新総統就任直後から早速、国民党主流派との連携、協力を必要とし、その前途は多難である。
 例えば陳水扁は、当選後に李遠哲を行政院長(首相)につけた新政権の組閣のために一週間ものあいだ「李遠哲口説き」を試みたが、結局は李遠哲に固辞され、代わって外省人の退役軍人である唐飛・国防部長に行政院長職を依頼し了承を得ることとなった。ただしこの唐飛指名は、以下のような点を考慮するとき、結果的には妥当な人事であったと思われる。
 というのも、唐飛については、彼が外省人であるために、「陳水扁政権では外省人の政治の場(ガス抜き)がなくなる」といった懸念が回避され、軍に特定の派閥を持たない彼が外省人の上層、将校クラスの不満を押さえる触媒的効果をもつことが期待されたからである。ちなみに、唐飛の行政院長指名は、軍の副総参謀長以下二〇名程度の外省人師団長クラスが辞意を表明したため、それに対応した措置であったとの説もある。
 唐飛はまた、民進党との関係も良好であり、その政治手腕、行政能力についても、国防部長時代での立法院での答弁、彼が空軍総司令官であったころに頻繁に起きた戦闘機の墜落事故などの迅速な処理といった点で、その温厚な人柄も含めて、彼の行政院長指名に関する評判は悪くなかった。
 ただし、この唐飛人事が民進党と国民党との人事・政策面での全体的調整と協調につながると判断するのは早計であり、陳水扁政権での組閣は、唐飛を含めて「一本釣り」といった観をぬぐえないものであった。
 また、国民党内部には、李登輝総統の党主席辞任によって主席代行となった連戦をとりまく人脈のなかに、既述のような選挙戦を戦った関中、徐立徳らの保守的な勢力や、依頼されれば陳水扁新政権への協力を惜しまない台湾人勢力、この選挙後に親民党を結成した宋楚瑜を支持する「隠れ宋一派」ともいえる勢力が混在している。
 したがって、陳水扁の「全民政治」は、民進党、李遠哲・国政顧問団、国民党、親民党といった各勢力の動向をふまえながら推進せざるを得ず、その現実は、唐飛内閣の閣僚人事などに反映されていた。前記の宋楚瑜・親民党に近い勢力は、立法院内だけでも二五を越える議席を有するが、そこで民進党と国民党との綱引きが生じた場合、第三勢力としてキャスティング・ボードを握ることとなろう。その意味では、陳水扁はまず、じわじわと自己の政権固めを遂行し、陳水扁色の強い政治の舵取りを可能とするのは、来年の立法委員選挙の結果をまたねばなるまい。
 一方、陳水扁の対外・対中政策は、民進党の「外交白書」で示した三大原則、すなわち(1)「新国際主義」を主軸とする「台湾の国際空間での新しい役割」、(2)「主権独立」優先、「国家安全」と「経済安全」を共同の核心とする「外交関係の正常化」、(3)「多元外交」をもって「国際社会への全面参加」の起点とするといった点が前提となろうが(「外交白皮書」)、加えて彼は、既述のように、九九年一一月一四日に「中国政策白書」を発表しており、対中政策については、そこでの主張が前提となろう。
 さらに彼は、前記の当選当日の記者会見で、いわゆる「三通」の開始、平和協定の締結、中国首脳の台湾訪問歓迎、彼自身の総統就任前の訪中希望などを表明したが、彼はすでに、二月一四日の『ワシントン・ポスト』とのインタビューで、「もし総統選挙に当選したなら、江沢民国家主席、朱鎔基総理、汪道涵会長の訪台を要請」し、「『三通』『一つの中国』の解釈もすべて話し合える」ほか、「当選しても、『二国論』の憲法明記は推進せず、『統一か独立か』の国民投票も実施せず、国名も変更もしない」としていたが、ここでは実践よりも言葉が先行していたかに見える〈15〉
 加えて、民進党はすでに、党の綱領にあるいわゆる「台湾独立条項」のなかで、「台湾共和国の建国」を削除し「主権独立・自主の国家を確立する」の表現に修正するといった動きを見せていたが、これもまた選挙対策という意味合いが強く、これを本当に実行した場合、民進党の分裂を惹起する可能性も否定できない。
 さらに、中台対話については、陳水扁の対中対話への強い意欲は見て取れるし、チャネルとしても、民進党、李遠哲・顧問団、汪・辜会談(既存の民間交流窓口である辜振甫・汪道涵ルート)、前記の李登輝前総統がはなった「密使」ルートなどが考えられるが、辜振甫と民進党若手幹部との中国認識にはかなりのズレがあり、李遠哲・グループも中国との早期対話を実現できるか否かについては、未知数である。
 そして、五月二〇日の総統就任演説に「一つの中国」の言葉を入れるよう求めたり、「一つの中国」の原則を前提として対話に応じるという中国側の立場と、就任演説ではぎりぎりの曖昧性のなかで「一つの中国」に言及し、中国側との見解の相違を含めて対話のテーブルにつきたいという台湾側との認識上の違いはまだまだ大きいだけに、陳水扁新政権の前途は多難である。
四 中国から見た陳政権と中台関係
 ところで筆者は、去る六月一九日から二七日まで、中国社会科学院台湾研究所の招請を受けて、北京、アモイ、上海の各台湾研究所を訪問し、陳水扁新総統が誕生した最近の台湾問題に関する一連の座談会や意見交換を行なった。訪問先は北京の全国台湾研究会(姜殿銘副会長ほか)、社会科学院台湾研究所(許世詮所長ほか)、中国国際戦略基金会(民間、社会科学院台湾研究所とのメンバーの重複あり)、国務院台湾事務弁公室(孫亜夫局長ほか)、アモイ大学台湾研究所(範希周所長ほか)、上海台湾研究所(章念馳副所長ほか)であった。
 以上のような筆者の訪中の際の問答は、以下のように要約されよう。まず第一に、中国の研究者の李登輝前総統や三月の総統選挙の最終段階で陳水扁支持にまわった財界人である許文龍・奇美実業会長に対する批判の強さには激烈なものがあり、こうした感情は二、三年経たないと沈静化しないのではないかと思えるものであった。また、中国の一部の研究者の発言として、「李登輝の『二国論』が出たことによって、台湾への武力行使が理論的には可能となった」というなど、いささか度を過ぎた李登輝批判も存在していたことを付言しておこう〈16〉
 第二に、「一つの中国」の原則をめぐる議論は、「九二年と九八年のコンセンサス」問題など、中台双方ともに平行線をたどっているが、この点に関する新たな概念化と工夫が双方でなされない限り、本格的な中台対話は短期的には再開できない状況にあるといえよう。
 しかも第三に、中国が台湾に対する武力行使の可能性を堅持しているとはいえ、中台交流の現状は、国民党保守派や親民党系の人物の訪中が先行しており、また中国自身も陳水扁政権周辺の人物の訪中やアプローチを拒否していないだけに、筆者は、両政権の意向を反映し、それを的確に伝える人達の交流が必要であるとの印象を受けた。
 もとより第四に、筆者が訪中した六月後半の時点では、一部の研究者のなかに中台両岸関係についてはあまり語りたくない雰囲気があるように感じられたが、夏の北戴河会議あたりで台湾問題が議論され、その方針に基づいてその後の研究重点の方向性が下に降りてくるため、この訪中時点では将来に向けた微妙な問題についての発言を回避された可能性もあった。
 ただし、第五に、この北戴河会議では、台湾問題以外に国有企業の改革やその他の内政上の問題での議論が台湾問題より優先順位が高いとも考えられ、ある研究者は筆者との個人的対話のなかで、中国も(台湾同様)「政治改革がなければ経済改革も完成しない。いま中国が抱えている問題は、両岸の問題より、中国国内の国有企業改革、一次帰休者などのより大きな困難がある」と語ってくれた点は興味深いものであった。
 そうしたなかで、陳水扁新政権とその後の台湾内政に関する中国の見方をより詳しく紹介してみると、前記の連戦の国民党、宋楚瑜の親民党との交流が陳水扁周辺の人々よりも先行しているためかもしれないが、先の総統選挙でも示されたように、台湾内部での宋楚瑜の支持者が国民党内部にもかなり多く、短期的には無理だとしても長期的には「連戦・宋楚瑜合作」の可能性があるとの見方が開陳された〈17〉
 また、もし民進党が長期政権を願うのであれば、同党の綱領にある「台独条項」を何とかせねばならず、謝長廷・民進党新主席は「台独条項」の修正に関して否定的ではなく、陳水扁政権の中台両岸関係に対する柔軟な姿勢についても中国側は注目していた。しかも、民進党内部の「教条主義的台独派」が相当の影響力を有しているために「台独条項」の短期的な修正の可能性は低いものの、もし陳水扁新総統が内政面で困難に直面することになれば、彼が台湾での安定政権をアピールする必要性のゆえに、来年一二月の立法委員選挙前に党の綱領、とりわけ「台独条項」を修正する可能性が高まるとの見方が支配的であった。
 というのも、陳水扁政権は、立法委員選挙を前にして、民進党が安定勢力であることを島内にアピールし、対中政策を「中道化」する必要性が生じるからである。また、謝長廷民進党主席が陳水扁新政権の対中政策のソフトな面は決して党の対中政策に反するものではないと新総統を擁護している点に注目し、中国側としては陳水扁と謝長廷の関係に留意したいということであった〈18〉
 ただし、民進党が「台独条項」を修正すると同党が分裂する可能性があるのではないかという筆者の質問については、七月の民進党大会で「台独条項」前段部分での文字上の修正の可能性があるが、本質的な修正・破棄は来年以降にならないと難しいし、これによって民進党を分裂させるほどのものではなく(一部には分裂の可能性もあると述べていたように記憶している)、民進党が「台独条項」を破棄しなくても陳政権と北京との関係改善は可能との意見もあった〈19〉
 つまり、中国側は、「一つの中国」の原則に反していなければ誰でも訪中可能であり、陳水扁新政権周辺の人物の訪中も否定していないが、民進党については「台独条項」を破棄しない限り、党としての交流は不可能であって個人としての訪中に限定されるということであった〈20〉
 そうしたなかで、陳水扁新総統の対中政策については、彼が短期的に「一つの中国」の受け入れを承諾することは不可能だとしても、その点に関する彼の総統就任演説での主張が不明確であり、「三通」については、台湾企業の大陸投資は中小企業ばかりであって、中国としては大型多国籍企業の投資を望んでおり、「通航」については、台湾からの「一方通航」には同意できないとのことであった。
 また、中台両岸の対話再開のチャネルとして、汪・辜会談と李遠哲・中央研究院長を首班とする「超党派両岸政策小組」の二つが存在し、汪道涵氏が自己の役割を放棄したり、中国側が汪・辜会談を中断するとの報道があるという質問に対しては、汪道涵氏の健康不良を指摘する意見が多かった。
 ただし、台湾側が、後述する九二年と九八年のコンセンサスに戻れば、汪道涵は今秋を待たずにすぐにでも訪台できるとの意見もあり〈21〉、筆者としては、汪氏の健康状態が汪・辜会談の再開を阻害するものではないとの印象を受けた。
 加えて、中国の両岸関係協会と台湾の海峡交流基金会の交流中断説については、陳水扁総統が台湾の「国家統一綱領」を破棄しないと述べているが、それに基づいて「行動する」とは言っておらず、もし陳水扁総統が「国家統一綱領の基礎の上に立って両岸関係を推進する」と言えば、中国側は必ずや積極的反応を示すであろうとのことであった。
 そうしたなかで、既述のように、中国側が「一つの中国」を原則として中台対話の再開を主張し、台湾側はその「一つの中国」問題そのものを含めて議論することで対話の再開を主張しているため、双方の対話再開に困難が生じている。
 ちなみにわれわれの訪中時の六月二〇日、陳水扁総統は、台北での記者会見で、一九九二年の両岸関係協会と海峡交流基金会との「一個中国、各自表述」(「一つの中国については、それぞれが述べ合う」)のコンセンサスを否定したが、これに関する中国側の主張は次のようなものであった。
 すなわち、九二年一〇月、前述の二つの民間窓口による香港での事務的対話において、台湾の海峡交流基金会の許恵祐副秘書長は両岸関係協会に対して八つの方針を提示したが、そのなかの第八番目の提案は、「国家統一」を求める過程において、双方は「一つの中国」を堅持するが、「その見解は異なる」ということであり、当時は「一つの中国」原則を堅持する点については「コンセンサス」が存在したということであった。
 ところが、台湾側は、このコンセンサスを「一個中国、各自表述」という形でまとめてしまい、前記の許恵祐は「コンセンサスがないのがコンセンサスであった」と主張し、「一つの中国」原則よりも「各自表述」の方を前面に押し出し、先の陳水扁総統の記者会見談話もその立場を表明したものであったが、これは中国側にとって受け入れられるものではなく、そもそも九二年当時、「一つの中国」の見解の内容については何も話し合われていないという説明がなされた〈22〉
 では、中国側のいう「一つの中国」原則とは具体的にいうと何か? それは、「台湾は中国の領土」であるのか、台湾と中国は「一つの国家」であるのかという点に集約されるということであった。そして、陳水扁総統は総統就任演説で、(1)武力行使がなければ独立を宣しない、(2)国名(中華民国)を変更しない、(3)「二国論」を憲法に入れない、(4)統独問題で公民投票を実施しない、(5)国家統一綱領と国家統一委員会を排除しない――といういわゆる「五つのノー」を表明したが、彼がそれに「中国側に武力行使の意図がなければ」という条件をつけたことに対して、これは台湾側の恣意的な判断に基づくものであって、中国側から見れば「誠意に欠ける」ものとされた。
 つまり、九二年当時に問題となっていたのは、「中華人民共和国」と「中華民国」のどちらが「中国」を代表するかであり、そこでは双方ともに「一つの中国」についての前提があったのであり、中国側としては、台湾側がその九二年コンセンサスに戻って「中国と台湾は一つの国家である」と表明すればよいとのことであった。では、その「一つの中国」とは「中華人民共和国」を意味するのかという質問に対しては、明確にそう答えるのではなく、「一つの中国」の概念は、第一に、世界に中国はただ一つであり、第二に、台湾は中国の一部だということであった。もとよりこれは、中国側の台湾に対する説明であり、外国に対しては、これに「中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府である」という前提が加わることになる〈23〉
おわりに
 中台関係における双方の立場(とりわけ中国側の見方)は以上のように整理することが可能であるが、そうしたなかで日本はどのような外交行動をとるべきであろうか? ちなみに、日本の『外交青書』では、その安全保障政策に対して三つの柱を置いている。それは、より具体的には(1)日米安全保障体制の堅持、(2)適切な防衛力の整備、(3)国際社会での平和と安全を保障するための外交努力――とされ、第三の柱のなかにいわゆる「予防外交」(preventive diplomacy)が含まれるといってよい。
 「予防外交」は、W・J・ペリーとA・B・カーターが主張する「予防防衛」(preventive defense)とは異なり〈24〉、小国が自国の安全保障のために行なう紛争予防のための外交努力と理解され、ARF(ASEAN Regional Forum)も、その一つと考えてよい。
 冒頭で言及した台湾の李登輝政権下での「密使」外交も、そうした「予防外交」の一環だと理解することができる。したがって、中台両岸指導部同士の直接接触が可能であるとなると、台湾海峡両岸関係に日本が関与することは、中台関係の安定のための補足的な外交努力を行なうに過ぎないと言わざるを得ない。
 李登輝政権下での中台双方による「密使」派遣は、あくまで極秘のものであり、それが進行している最中に日本やアメリカの政権中枢にそのことが知らされているかどうかは不明であり、われわれ外部の観察者は、そうした極秘の行動を知らされないまま、中台両岸関係を分析することになる。
 もとより、台湾の蒋介石、蒋経国時代の両岸関係に日本が関与した歴史的事実は存在するが、そうした日本の関与が必ずしも効果的であったかどうかは、疑問の余地もある。すなわち、これまでの日本は、中国に対して不必要と思われるような行動をいろいろと行なってきたという歴史的事実がある。
 例えば、一九七二年と七四年の日台航空路断絶と復航の際に、中台が日本を土壌にした競争関係にあるなかで、仲介役としての日本政府は、自国の外交のまずさとそうした不適切な外交の現実自体を十分認識していなかった模様である。だとすれば、日本の役割は、そうした「不必要な行動をどれだけ減少させるか」といった新たな発想で日中、日台関係を展開すべきであるように思われる〈25〉
 台湾海峡問題における「予防外交」は、アメリカもいわゆる「中間協定」(interim agreement)というかたちでクリントン政権下でも議論されてきたが、そうした外交努力を評価するジョージ・ワシントン大学のハリー・ハーディング教授に対して、中国の社会科学院台湾研究所の許世詮所長が批判的な立場を堅持し、中台両岸関係の改善は諸外国の関与によるものではなく、中台双方の「バイラテラル(二国間)な関係」において推進したいと語っていた点にも留意したい〈26〉
 また、ハワイ大学イースト・ウエスト・センターのチャールズ・モリソン教授は、日中の長い文化的歴史、中国との戦争体験による贖罪観などを有する日本が、台湾海峡問題という複雑な渦のなかにあえて飛び込み、事態を好転させることが果たして可能なのかと疑問を呈する向きがある点も記憶にとどめておきたい〈27〉
 ただし、いずれにせよ、本論の冒頭で述べたように、日中台関係には、新たな視角とアプローチが必要となっている。そして、日本外交は、中台関係を左右する独立変数ではなく、逆に中台関係によって左右される従属変数であり、そのことを踏まえながら今後の日中台三角関係を推進すべきことが肝要だと言えよう。
 そして、台湾の新政権は、原発建設問題をめぐって唐飛行政院長辞任という事態に直面したが、これによって陳水扁の「全民政府」は根幹から揺らぎ始めており、それに対する中国の反応も注目されるところであろう。
井尻秀憲(いじり ひでのり)
1951年生まれ。
東京外国語大学中国語科卒業。米カリフォルニア大バークレー校大学院修了。政治学博士。
筑波大学助教授を経て現在、東京外国語大学教授。
 

〈1〉『中国時報』二〇〇〇年七月一九、二〇日。「こうして台湾に民主政治が確立した」『中央公論』二〇〇〇年一〇月号。
〈2〉以上の記述については、筑波大学の清水麗・準研究員から示唆を受けた。
〈3〉吉田茂『回想十年』新潮社、一九五七年。
〈4〉『毎日新聞』二〇〇〇年五月二九日。
〈5〉同右。
〈6〉同右とそこでの識者のコメントを参照。
〈7〉拙稿「日中国交樹立の政治的背景と評価」『東亜』一九八八年二月号、一〇―二六頁。
〈8〉吉田と張群の大磯での会談録。前出の清水麗・準研究員の示唆による。
〈9〉『中国時報』『自由時報』二〇〇〇年三月一九日。
〈10〉拙稿「台湾、最近の情勢」『中国総覧』一九九八年版、参照。
〈11〉『中国時報』二〇〇〇年三月一三日など。
〈12〉台湾政財界の複数者とのインタビュー。
〈13〉『人民日報』二〇〇〇年二月二二日、『北京週報』二〇〇〇年三月七日号。
〈14〉『人民日報』、『中国時報』二〇〇〇年三月一六日。
〈15〉『自由時報』二〇〇〇年二月一五日。
〈16〉李登輝の「二国論」に関する公式文献としては、『特殊国与国関係』中華民国政策説明文件、一九九九年八月を参照されたい。
〈17〉全国台湾研究会での発言。
〈18〉中国社会科学院台湾研究所、アモイ大学台湾研究所での発言。
〈19〉アモイ大学台湾研究所での発言。
〈20〉国務院台湾事務弁公室での発言。
〈21〉中国社会科学院台湾研究所での発言。
〈22〉国務院台湾事務弁公室での発言
〈23〉同右。
〈24〉Ashton B. Carter and William J. Perry, Preventive Defense, Washington, D.C.: Brookings Institution Press, 1999.
〈25〉清水麗「航空路問題をめぐる日中台関係」『地域研究』第一八号(二〇〇〇年三月)、一六八、一六九頁。
〈26〉許世詮・中国社会科学院台湾研究所所長との会話。
〈27〉ハワイ大学イースト・ウエスト・センターでの筆者の報告に対するチャールズ・モリソン教授のコメント。
 
 
 
 
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