日本財団 図書館


念仏踊りと太鼓・・・伊藤好英
■和合の念仏踊り■
 念仏踊りと太鼓との聯想の結び付きは極めて強い。ここでいう念仏踊りとは、詠唱念仏と踊り念仏とを組み合わせた融通大念仏の流れを汲むもので、中世以降、熊野や高野を主な根拠地とする遊行聖たちによって民間に伝播され、民間の間で次第に風流化していった芸能のことである。詠唱念仏や踊り念仏にももちろん、鉦・鈴・法螺貝などの他の楽器とともに太鼓は使われていた。しかし、踊り念仏が風流化して念仏踊りに近づくにつれて太鼓が他の楽器類よりも目立つようになり、最後には念仏踊りと言えば一般に、太鼓を打ちながら勇壮に跳ねる太鼓踊りを中心に据えたものを想像するまでになった。この文ではその念仏踊りの考察を通して、太鼓のつくり上げる世界を探ってみよう。長野県下伊那郡阿南町和合の念仏踊りを一つの軸として話を進めてゆく。
 和合の念仏踊りは現在八月十三日から十六日の月遅れの盆の夜に行われている。本来は陰暦の盆の行事であった。もとは念仏行列と呼んでいた。行列の構成は順番に灯籠・旗・ささら・ひっちき・太鼓打ち・太鼓持ち・鉦・やっこ・笛・花・やなぎ・念仏和讃連である。この一行が十三日の晩は、村はずれの熊野神社で一踊りしたあと、神社を出発して村の開祖とされる宮下家(大家)に練り込んで踊り、続いて林松寺まで行って踊る。十四日と十五日の二晩は林松寺で踊り、十六日の晩は十三日と逆に林松寺、大家、神社のコースを辿って踊る。昔は十四日・十五日は新盆の家々を廻ったという。
 踊りの見せ場は、庭に練り込む「庭入り」でその後半は庭内での踊りとなる。その中心は七個ある太鼓を使って若者たちが跳ねる太鼓踊りと、二人の若者が簓(ささら)を摺りヒッチキという棒を回して絡み合いながら踊る「ひっちき」の踊りである。跳ねるから踊りとも言えるが、左右への回転も多いので舞という印象も受ける。神社・大家・寺の庭ではこの踊りを行なったあと、太鼓で伴奏を入れながら「念仏」と「和讃」の詠唱がある。
 三河東部・遠州西部・信州最南部には、これと類似の念仏踊りが数多く残っている。名称は大念仏・ほうか(放下)・跳ね込み・掛け踊りなどとまちまちで、地域別の特色も見受けられるが、太鼓の踊りを中心にした念仏行事である点では共通しており、大略において同系統の芸能であると見ることができる。三河のものと遠州のものとの間には相互の影響関係が認められるし、信州のものには三河・遠州双方からの影響が認められる。
 
■念仏踊りの太鼓の二つの経路■
 念仏踊りにこのように太鼓が強く結び付いてくる理由を、ここで二つの経路から考えてみよう。一つは踊り念仏からの経路であり、もう一つは田楽からの経路である。
 
図(1)一遍聖絵
(歓喜光寺・清浄光寺蔵、鎌倉時代)
 
 日本における踊り念仏は空也(九〇三―九七二)の時代に始まったとされるが、京都の六波羅蜜寺にある空也像は、胸に鉦鼓(金鼓)をかけ右手に撞木を持っている。生前の空也の遊行する姿を表わしたものという。ところが、この空也に踊り念仏を習ったとされる平定盛の子孫である空也僧たちの伝える踊念仏では、金箔・銀箔を塗った金太鼓・銀太鼓・金瓢・銀瓢が使われる。空也の時代と空也僧の時代との間に、楽器の変化や追加が見られるようである。
 次に、各地で踊り念仏を勧めたとされる一遍(一二三九― 一二八九)の遊行の様子を描いた『一遍聖絵』の踊り念仏の場面を見ると、一遍や念仏房が鉢をたたいており、周囲には簓(ささら)を摺っている僧もいる。(図(1)参照)五来重によれば、踊り念仏に鉢をたたくのは、古来からの鎮魂呪術に霊魂の容器である壺や缶(ほとき)をたたくことがあったからであるという。空也僧が瓢(ひさご)をたたくのも、それが霊魂の容器だからである。ちなみに、やはり五来によれば、一遍の開宗になる時宗では、その後鉦鼓(金鼓)が念仏の楽器の中心に据えられていったという。(1))
 踊り念仏に使われる打楽器を整理すると、鉦鼓・瓢箪・鉢などであるが、これらはいずれも内部に空洞を持っており、霊魂の容器の役目を果たすものであった。これらが踊り念仏に使われるということは、その念仏が単に念仏を唱える者の往生のみを願うものではなく、生者の魂を活気付かせるとともに、死者の霊魂を鎮める「たまふり」と「たましずめ」の目的を持っていたことを示していよう。
 
図(2)法然上人伝絵
(南北朝時代)
 
図(3)月次風俗図屏風
 
 瓢箪を念仏の道具に使用するのは、日本だけのことではなかった。七世紀の新羅の僧侶元暁(六一七―六八六)は、王女と通じて薛聰を設けたあと、俗服を着て自ら小姓居士と名乗った。たまたま放浪芸人たちにあって、彼等の用いる大瓢で踊り道具を作り、それを「無」と名付けてこれを持って多くの村々をまわり、歌ったり踊ったりして民衆を教化した。そのため無学な人々も仏の名を知り、南無阿弥陀仏を唱えるようになったという。(2))
 無がどのように使用されたものであったかについては、早くに仮面説が出されたが、後に韓国の学者梁在淵は「無戯小考」において、それが楽器として用いられたものであることを論証した。(3))すなわち、『高麗史』楽志や『破閑集』によれば、高麗の無は仮面ではなく、瓢箪の上部には金鈴を垂らし下部には彩帛をたらし、これを揺すると鈴音が鳴り色彩豊かな布帛が翻り踊りに興を添える重要な役割をする楽器であるという。元暁の使った無はさらに素朴なものであったろうが、大瓢が楽器として使用されたことは間違いなく、これを叩いて念仏を唱え、踊りながら村々を廻ったものと思われる。
 鉦鼓(金鼓)を打ちながら村々を廻る念仏者の例としては、沖縄のニンブチャーを取り上げよう。ニンブチャーは沖縄の念仏者の団体である。かつて首里郊外の安仁屋村に住みつき、ここを根拠地として、春には万歳者として人形を舞わし、盆や彼岸には念仏歌を歌って島内を廻った。彼等は太鼓を打って人形を舞わしたが、ニンブチャーガニと呼ばれる鉦鼓が残されていて、葬式に出る時も含めて、彼等は念仏歌を歌う時にはこれを使用したことが明らかである。
 念仏踊りが太鼓などの打ちものを主たる楽器とするのは、踊り念仏に使われるこれらの打ちものの鎮魂の道具としての性格を引き継いでいるものと見ることができる。念仏踊りが新盆の家々を廻るのは、新しい死者の荒々しい魂を鎮めるのが一つの目的であるが、太鼓や、地域によって出される鉦鼓の一種である双盤などの打ちものは、その目的を果たすための重要な道具であると言える。
 念仏踊りに太鼓が強く結びついてくることになる二番目の経路は、田楽からのものである。すなわち、現在村落ごとに行われている念仏踊りで使われる太鼓の多くは、直接には田楽の太鼓の系譜を引いているものと想定される。
 田楽は田遊びの「もどき」とも言えるもので、楽器を使って行う田の予祝芸能である。発生的にも呪術的な傾向が強く、特に外来の民間楽である散楽の要素が多く取り込まれている。新井恒易によれば、田楽という用語そのものが中国からの移入であるという。そして中国の田楽は、田植えにかかわる秧歌劇系の散楽の一種で、楽器には腰鼓・小鼓・拍板(ぴんざさら)などを用い高足などもあったという。(4))日本の田楽もその発生の初期からこれらの楽器を用いている。
 『栄花物語』の中の「田植え御覧」の記事中に、「田楽といひて、あやしきやうなる鼓、腰に結ひつけて、十人ばかりゆく。そがなかにもこの田鼓といふものは、例の鼓にも似ぬ音して、ごぼごぼとぞ鳴らしゆくめる」とあるその田鼓は、腰に結いつける鼓だから腰鼓であろう。この田植えは道長が彰子のために邸宅内の秣田(まぐさだ)で行わせた遊興の行事であるが、実際の田植えをそのまま移すことを要求しており、当時の農村行事の様子を垣間見ることができる。田楽の鼓が雅楽のそれとは音も打ち方も異なったものであったことがここに窺える。
 上の記事の「田楽」は、楽全体を指すとも鼓を指すとも二様に取れるが、『今昔物語集』(第二十八)の中の「近江ノ國ノ矢馳ノ郡司ノ堂供養ノ田楽ノ語」には、「或ハ、ヒタ黒ナル田楽ヲ腹二結付テ、程ヨリ肬ヲ取出シテ、左右ノ手ニ桴(ばち)ヲ持タリ。或ハ笛ヲ吹キ、高栢子ヲ突キ、□ヲ突キ、(エブリ)ヲ差テ、様々ノ田楽ヲ、二ツ物・三ツ物ニ儲テ、打リ(ののしり)吹キ乙(カナデ)ツツ、狂フ事无限シ(カギリナシ)」とあり、こちらでは明らかに、腹に結び付けた鼓を田楽と呼んでいる。腰鼓などの鼓類が、日本の田楽でも代表的な楽器であったことが裏付けられる。
 ところで、『今昔物語集』の田楽は矢馳の郡司が堂供養に訪れた僧を歓待するために用意した楽で、この記事には大勢の「田楽ノ奴原」が僧一行の乗った馬の周囲を賑やかに囃し立てながら移動する様子がよく描かれている。このあと郡司の家の門に着くと、彼等は僧を馬に乗せたまま庭内に入れ、馬の左右に並んで楽を奏でながらそこで激しく乱舞したとある。また『栄花物語』でも、田楽の連中は楽を鳴らしながら秣田まで行列して、秣田に着くとそこで思う存分に楽を奏でている。これらの記事によって、田楽がごく初期の段階(二つの記事とも十一世紀前半の田楽の様子を記したものである)から、行列をなして目的地に練り込んでゆく芸能であったことが理解される。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION