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■念仏踊りと田楽■
 話を和合の念仏踊りに戻そう。和合の太鼓についてもう少し詳しく述べると、七つある太鼓はかなり大きな締め太鼓で、皮張りの直径が六十センチ前後(一定ではない)である。やや胴長で、胴は槍の曲げ物を三つ四つ合わせそれを山桜の皮で染め、左右から細い麻縄で締めてある。このような構造であるから大きさに比してそれ程重量はなく、離れた所の新盆の家々を廻るのにも手に提げて持って行くことができるし、片手にこれを提げて打つこともできる。
 太鼓の分類ではこのタイプのものを長胴型枠付き締め太鼓と呼んでいる。和合の念仏踊りや南信州下栗の掛け踊りなどを北限とする三信遠一帯の放下系の念仏踊りは、打ち方に地域ごとの差はあるものの、多くがこのタイプの太鼓を使用している。さらにこの長胴型枠付き締め太鼓の分布を追ってゆくと、ほぼ全国的に念仏踊り系の多くの風流芸能がこれを用いていることに気付かされる。その代表的なものを挙げると、鹿児島県大浦の太鼓踊り、宮崎県西都原の臼太鼓、長崎県嵯峨島のオーモーデ、伊勢市のカンコ踊り、岐阜県下の太鼓踊り、富山県五箇山のコキリコ踊り、青森県の駒舞・虎舞、岩手県の剣舞・鹿踊りなどである。言うまでもなく、これらの行事においてこのタイプの太鼓は、囃し専用の太鼓ではなく踊りながら打つためのものとして使われる。
 
図(3)大山寺縁起
(東京大学史科編纂所蔵、室町時代)
 
 いわば長胴型枠付き締め太鼓は、念仏踊りの太鼓の最も代表的なものであると言ってよいが、実は全国各地に現在残っている田楽で使われている太鼓や、絵巻物に描かれた田楽の太鼓の中に、このタイプのものが見られる。田楽で最も多く使われるのは締め太鼓の胴の部分が短いもので、短胴型枠付き締め太鼓と分類されるものである。しかし、那智の田楽や秋田県鹿角市の大日堂の田楽、同県八幡平村の大日堂の田楽、伊勢の内宮の神田の田楽、島根県の多久田楽などでは、長胴型枠付き締め太鼓を打ちながら踊るし、全国の囃田で行われる田楽踊りはほとんどがこのタイプの太鼓を使用している。絵巻物に描かれた田楽では、『法然上人伝絵』(図(2))『月次風俗図屏風』(図(3))『大山寺縁起』(図(4))の田植え田楽の場面に長胴型の締め太鼓が見える。これらのことから、念仏踊りや風流踊りで使われる長胴型の締め太鼓は、これらの田楽の太鼓、特に田植え田楽の太鼓と深い関係を持つことが考えられよう。
 ところで、『法然上人伝絵』や『大山寺縁起』の田植え田楽の場面を見ると奇妙なことに気付く。代掻きをし田植えをしている人々の端で、三人ないし四人の楽人が笛・太鼓・鼓・簓をそれぞれ手にしているのであるが、単に田仕事にリズムを添えているだけには見えない。太鼓や簓を打つ者は、打ちながら片足を挙げて踊っているし、鼓もただ打つのではなく、空中にそれを投げ挙げたり頭上にかざして打ったりしている。楽器を持つものが踊りと曲芸を演じているのである。これらの動作は明らかに散楽の流れを継承しているものである。散楽は先にも述べたように外来の民間楽であるが、それは多分に呪術的な性格を保持したものであった。ここで田楽を演じている者たちは、そのような散楽的な演戯によって田の鎮魂を行なっているのである。田楽とは元来そのような呪術的な目的を根底に持つ芸能であった。
 この二つの田楽の絵巻を和合の念仏踊りと重ねて見よう。和合の念仏踊りでは、太鼓とささら・ひっちきが庭の中央で踊り、笛が庭の端で音を奏でるが、それはこの二枚の田楽絵と構図を等しくするものである。また絵巻ではそれぞれ一人ずつが側で簓を摺りながら踊っているが、和合の「ささら」は「ひっちき」という棒振りとの掛け合いで踊る。和合の念仏踊りが田楽と近い関係にあることをこれらの構図の類似は示していよう。
 
図(5)下栗
掛け踊りの太鼓
 
 もっとも和合には鼓の曲芸はない。だがそのかわり、「庭入り」の後半で太鼓の曲打ちがなされる。その曲打ちのために、この地域の念仏踊りないし掛け踊りには「太鼓持ち」の役のものが出る。下栗の掛け踊り(図(5))にも出るし、三河の多くの念仏踊りにも出る。太鼓打ちは太鼓持ちに太鼓を持たせて存分にその撥捌きを披露するわけである。そう思ってみると、『月次風俗図屏風』にも太鼓打ちと太鼓持ちとが描かれている。また、江戸時代の『公家武家遊楽図』(図(6))に見える太鼓持ちも遊興の場での太鼓打ちの芸を一層引き立たせるための存在といえる。ともあれ、念仏踊りの太鼓や簓の踊りに散楽的な曲芸の要素が入り込んでいることはそれらの身体の捌きからも認めることができよう。
 
図(6)公家武家遊楽図
(洛東遺芳館蔵、江戸時代)
 
 以上、念仏踊りに太鼓が強く結びついてくる理由を、踊り念仏と田楽との二つの経路から考えてみた。太鼓に照準を合わせて考えたが、以上の考察からもわかるように、実は念仏踊り自体が踊り念仏に田楽が習合して生まれてきているのである。その習合の時期のひとつの目安になるのが、久寿元年(一一五四)のこととして『梁塵秘抄口伝集』に初めて記事が出てくる紫野の御霊会である。「やすらい花」の名で知られるこの御霊会に、鎮魂の踊り念仏の要素と、踊り念仏と同様に跳躍乱舞による鎮魂という似た性格を持つ田楽の要素とが混在していることは、『踊り念仏』の中で五来重がすでに指摘している。







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