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■多様なつづみ・ひやしのつち■
 さてオモロの「つづみ」は具体的にどのような楽器を指すのだろうか。直接の資料がないので、周辺から検討して行きたい。
 今日、祭祀の場で見られる打楽器は、円筒形の短い胴に豚皮の両面張りの太鼓がおもで、それを「つづみ」と呼び、チヂンと発音する。小島美子氏によれば、皮の張り方によって、紐で締める締太鼓と、鋲でとめる鋲留め太鼓があり、さらに締太鼓は枠付き型とくさび型に分類できるという(註(5))
 私がこれまで見た範囲では、沖縄本島北部の国頭地方では鋲留め太鼓が広く祭祀に用いられていた。国頭村比地のウンジャミで祭司たちがクェーナを謡う時に打つチヂンは鋲留め太鼓だし(写真(1)(2))、ウンジャミなどの祭祀に付随して祝賀のために舞うウシデークでも一般に鋲留め太鼓が用いられている(写真(3))。
 
(5)
翌年の豊饒を願う儀礼でユーを乞い打つ太鼓。
伊是名島のナークチ[1984年筆者撮影]
 
(6)
「ユークイ(ユーを乞う)」と唱えて太鼓を打つ祭司。
伊是名島のナークチ[同上]
 
(7)
奄美特有のなめさない皮の太鼓を打って踊る。
龍郷町秋名のショチョガマ[筆者撮影1999年]
 
(8)同上、秋名の八月踊り
[渡辺良正撮影]
 
 一方数は少ないが、締太鼓を用いる所もある。東村のウフウイミに「立ちウムイ」といって祭司達が長いウムイを立ったまま謡う儀礼があるが、そこでは枠付きの締太鼓を天井からひもで吊り下げて打っていた(写真(4))。太鼓を抑える役と打つ役が必要で、打ちにくいようだが、昔からのやり方で変えることはできないという。その太鼓を古風にウチュブと呼んでいる。「打ち呼ぶ」である。天井から吊り下げて打つ形は沖縄では外に見たことがない。どのような系譜があるのだろうか。
 伊是名島のナークチという翌年の豊饒を願う祭でも、祭司が祈願してから枠付きの締太鼓を「ユークイ(ユーを乞う)」と唱えて打っていた(写真(5)(6))。歌謡は失われて簡素な形になっているが、この儀礼の本質は、先のオモロのことばを借りれば「よ寄せひやし」を打ちあげて豊饒(ユー)を乞うことにあると考えられる。
 奄美大島には独特のくさび型締太鼓がある。皮はなめさず毛が付いたままで、くさびを打ち込んで紐を締める(写真(7)(8))。小島美子氏は、このくさび形締太鼓を琉球列島で最も古形に近いものとされた(註(6))
 このように現在見られるのはおもに円筒形の胴の鼓だが、くびれ胴の鼓も一部に存在したようだ。本田安次氏の報告によれば、一九五〇年代の与那国島・波照間島には祭祀関係者の家にくびれ胴の鼓が祭具として伝来していた。「長さ一尺五寸五分、直径六寸程のもので、皮の代りに、美濃紙を張り、それに芭蕉の渋でぬってあった。打てばポンポンと小鼓の音がする。」(『南島採訪記』註(7))。ヤマトの小鼓とは明らかに違う形で、本田氏は中国系かとしている。少数だが、こういう別系統の鼓も祭祀の場に見られたのである。
 オモロ歌唱の場にも胴のくびれた鼓が使われたらしい記録がある。オモロの歌唱を職として王府に仕えた「おもろ主取」の安仁屋家に家宝として伝えられた鼓である。一八九六年頃オモロ研究の先駆者田島利三郎が発見し、当主の安仁屋真苅翁から聞き取りをして、メモと図を残している。池宮正治『混効験集の研究』(註(8))によって知られるようになった。
 
 神楽に用ひし小はち(おもろ主取ノ話及家宝)
 神楽ハ古くより絶えたり 但し其の折用ひしものなりとて今に家宝として伝ふるものあり
 小はちといへるは即ち是ならむといへり
 
田島本「おもろそうし」書き入れ
[資料提供=琉球大字附属図書館](註(9))
 
 まず図から検討したい。鼓は長く使用されずバラバラになっていた。メモによると、長さ四寸八分、口径五寸四分の鉢状のものが二つ、長さ六寸、直径一寸三分の円筒形のものが一つあった。円筒形の横に「之ヲ中トシテツクナリ」とあり、円筒形のもので胴を継ぐ(繋ぐ)のであろう。池宮氏はこれを「突くなり」と読んでおられるが、それでは「中として」がわかりにくい。継ぐ部分がやや細いように思われるが、おおよその大きさや形は能の小鼓に近いようである。メモも「之ニ鳴皮ヲツケ皷トカハラズ緒ニテシメユルメ節ヲトリ□ト云伝フ」とある。
 近世、琉球の士族の間にはヤマトの能狂言の学習や上演が盛んで、能の小鼓も伝来していたことは確かである(註(10))。問題はそれがオモロ奏楽の場に持ち込まれたかだが、安仁屋家の家宝はそのことを証す有力な資料であろう。
 一方「神楽に用ひし小はち云々」の文は難解で不審な点が多い。この部分は『混効験集』の「ひやしのつち」の説明と関係があるようだ。
 ひやしのつち 小也。むかし神世の時君真物御遊に手拍子と申て拍子を打事也。今神楽に用る小、是なり。(『混効験集』575)
 傍線部の文を共有している。そもそも「ひやしのつち」とはどのような楽器なのか、説が分かれている。本田安次氏は『混効験集』に「手拍子」とあるのに着目して「内地では銅子を手拍子、戸拍子などと称している所がある。『混効験集』に解説のある「ひやしのつち」小は、すなわち銅子のことであろう」と銅子説をたてた(「沖縄の芸能」註(11)))。池宮正治氏は田島メモの円筒形のものをばちとして、ひやしのつちは「鼓を叩く桴」とされた(『混効験集の研究』一八八頁)。
 混効験集の説明文はいずれにせよ舌足らずな面があり難解なので、楽器の方から検討したい。はシンバルに似た打ち合わせる金属製の楽器で、東アジアに広く分布し、中国で・銅子、日本では「はち」、「どびょうし」、民間の田楽や神楽に入って「かね」「てびょうし」「どびょうし」等と呼ばれた(註(12))
 琉球では御座楽(中国系の室内楽)に銅子が用いられていた。内田順子氏が紹介した『琉球楽器略図』静嘉堂文庫蔵)の楽器目録には、「子」に「パツウ」の中国音の読みと、「テビヤウシ」のヤマト風の読みが併記されている(註(13))。中国から伝来した御座楽の子に、民間の和名を付したのはなぜだろうか。ヤマトの民間芸能、たとえば神楽などが楽器と名称を琉球にもちこみ、ある程度知られていた可能性が考えられる。波上宮をはじめとする琉球八社には巫女神楽があり、鹿児島から伝来したという伝えである。
 このように背景を考えると、『混効験集』の説明をようやく理解することができるのではないだろうか。「ひやしのつち」は小型の(シンバル状の楽器)で、昔(古琉球の時代に)祭司達が君真物の憑霊を受けて神遊びをした時、手拍子という楽器を用いて拍子を打ったことだ。今(一八世紀初め)は(波上宮等の)神楽に用いる小がそれであると。私は田島メモは、田島が『混効験集』の「神楽に用る小」の文言をあげて安仁屋翁に質問し、翁が自分なりの解釈で答えたものと想像している。
 オモロの歌唱・歌舞の場には、小型のシンバルを打ち合わせる金属的な甲高い音が鳴り響いたり、小鼓の稚な音が打ちあげられたり、現行の祭祀に比べて、遙かに多様な音色が聞かれた可能性があった。もちろん現在と同じ様に円筒形の太鼓が、オモロの鼓の主力であったに違いない。
 オモロは、人と物の交流が広く自由に行われた古琉球の時代を代表する歌謡である。なかには近世に取り入れられた楽器もあるかもしれないが、オモロが生成された歌唱の場に、中国からヤマトからその他の地域からさまざまな楽器が持ち込まれて、在来の楽器と共に使用されたことは十分考えられるだろう。
・・・〈東横学園女子短期大学教授〉
 
参考文献
伊波普猷 1924「あおりやへがふし(鼓をうたつたオモロ)」『おもろさうし選釈』伊波普猷全集第六巻 平凡社
伊波普猷 1925「古琉球の歌謡に就きて」伊波普猷全集第七巻 平凡社
仲原善忠・外間守善 1978『おもろさうし辞典・総索引』角川書店
池宮正冶 1982「おもろの『鼓』」『沖縄芸能文学論』光文堂
おもろ研究会編 1987『おもろさうし精華抄』ひるぎ社
矢野輝雄 1993『新訂増補 沖縄芸能史話』榕樹社
池宮正治 1995『琉球古語辞典 混効験集の研究』第一書房
島村幸一 1996「オモロの美称語」『沖縄文化研究』第二二号 法政大学沖縄文化研究所
 

註(1)『おもろさうし』巻一は1531年、巻二は1613年、巻三以後の大半の巻は1623年に成立したとされる。
註(2)「ひやし 拍子之事。神歌なとにも拍子をひやしと云」(『混効験集』〈1711年成立〉)
註(3)「向姓具志川家家譜」『那覇市史』資料篇第一巻七
註(4)本文は『尚家本おもろさうし』による。改行・濁点は筆者。後の〈 〉内は大意。
註(5)小島美子「クサビ締め太鼓の分布と民俗文化の地域性」『国立歴史民俗博物館研究報告』第52集、1993年
註(6)(5)に同じ。
註(7)初版1962。引用は『本田安次著作集』第19巻 76頁 錦正社
註(8)188頁 1995年第一書房
註(9)琉球大学附属図書館伊波普猷文庫蔵
註(10)三隅治雄「沖縄の民俗芸能―沖縄芸能と『やまと』『とう』『なんばん』―」『講座日本の民俗』八 1979年
 有精堂
註(11)初版1958年 『本田安次著作集』第18巻 263頁 錦正社
註(12)『音楽大事典』1982年 平凡社
註(13)内田順子「近世琉球の中国系音楽『座楽』に関する一考察」『沖縄文化』第29巻一・二合併号 85頁







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