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2004年2月号 中央公論
文部科学省の教育改革を語る
「ゆとり教育」は時代の要請である
文化庁文化部長 寺脇 研(てらわき けん)
 
課題はマネジメント
 
 いわゆる「ゆとり教育」と学力低下をめぐる論争で非常に意義深かったのは、教育問題の専門家ではない方々が発言をはじめたことだと思います。
 いま大切なのは、現実社会がどう動いているのか、子どもたちがこれからどんな人生を歩むのか、というビジョンです。自由主義社会で欲望がいろいろ渦巻いていて、さらにそこにグローバリゼーションの波がやってきた。このような状況で、教育に何ができるのか。
 これはもはや、教育学者の方々の領域だけで力が及ぶ問題ではない。ですから、教育学部以外の学者や、社会のさまざまな分野でご活躍の皆さんの発言が大変有意義なものになる。
 二〇〇二年四月の新たな学習指導要領の実施以降、問題は「ゆとり教育」の是非ではなく、それをどう実効あるものにするかの管理=マネジメントのあり方に移っています。それをどうするのかが、いま最も大事なのです。
 たとえば、学習指導要領はミニマム・スタンダード(最低基準)であるのですから、書いてある内容以上のものを発展学習として行うことはかまわないのです。このことは、文部科学省(以下、文科省)の中では誰もが知っています。しかし、それが現場の教員には周知徹底されていませんでした。
 なぜそうしたことが起きたのか。まずは文科省が、対日教組という五五年体制的対立を、現場レベルで収めていくなかで、ややもすれば硬直的なやり方をせざるをえなかったということがあるでしょう。
 また、それが運用される際に、文科省から教育委員会や校長にまで伝言ゲーム的に伝わっていくなかで、言葉が間違って、または誇張されて伝わっていった。ここには、官僚システム一般の問題があります。
 さらに、現場の教員の問題。彼らは改革を決定した審議会答申をほとんど読んでいないし、学習指導要領を熟知してもいない。つまりどこまでがミニマムの範囲かを正確に知らない。
 そもそも教員は、自分のしていることが法的にどのような性格を持つかという自覚が弱いのです。たとえば、学校教育法で禁じられている体罰をしても、平気で「教育のためだ」と言っていられる。このような非常に特異な「文学的」体質を持っている人がいる。
 ですからこれからの最大の課題は、これらの管理運営上の問題をどう解決していくか、です。「管理」というだけで、反対! と騒ぐからおかしいので、世の中で普通に使われる意味での「マネジメント」です。
 
新しいルールブック
 
 「ゆとり教育」へと進む方向は、明らかに時代の要請であり流れです。そもそも、こうした流れは、一九八四年に中曽根首相の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で確立されました。いまの「錦の御旗」は臨教審なのです。そこで「生涯学習」という理念が決まりました。学校中心主義からの転換、教師による「教育」から生徒中心の「学習」への転換です。この理念の延長にいまの教育改革がある。ですから「ゆとり教育」の枝葉については否定できても、その根本理念を否定できる人はいないはずです。
 そして、臨教審のそのまた根っこにあるのが、八一年にできた臨時行政調査会(土光臨調)です。土光臨調に日本の霞が関はいわばほぼ全面降伏した。事務局に出向していてその場に立ち会った私には、強烈な印象です。国鉄がなくなって、JRになる。電電公社がNTTになる。それまでの常識では考えられないことが起こったのです。予算はこれ以上増やさず、シーリングをかけて厳しくやっていく。公務員の権力はどんどん抑える・・・。
 それからの二〇年、小泉改革にいたる世の中の流れというのは、一貫して、“官から民へ”。中央集権から地方分権へ、大きな政府から小さな政府へ、という流れでやってきています。「ゆとり教育」もまた、これに沿った政策のひとつなのです。国レベルの制約をゆるめて地方や学校現場での裁量を広げる、という意味で。
 これはどの省庁でもそうですが、土光臨調以来、われわれ霞が関の役人には新しい政策立案規範が必要になった。教育政策にも、新しいルールブックができたのです。その表紙には「生涯学習」と、根本理念が書いてある。私が教育改革に関して政策立案やスポークスマンの役目を果たすようになったのは、このルールブックの成立に直接関わったからかもしれません。土光臨調でじかに議論に接しましたし、臨教審のいう「生涯学習」を具体化していく仕事に長く携わってきましたから。
 「生涯学習」という理念は、従来の役人常識ではなかなか理解しにくいものです。俺が国を動かしているとか国民を善導する、という考え方ではまったく対応できません。まず、学習する側である国民の要求を第一に優先しなければならないのです。教育改革は、学校教育に先がけて社会教育の分野で行われたのですが、そこで、たとえば学習者主体の公民館運営とはどうかと考えると、学習者のニーズをきちんと掌握してそこでの教育プログラムを構成することになります。それをさらにつき詰めれば、学習者の自主運営に任せるところへ至る。公民館を開放し、できるだけ制限を加えず使ってもらうやり方になるでしょう。ところが、これまでの日本の役人の習い性で、これがいちばん苦手なのです。
 
役人という存在の問題
 
 経済の自由放任主義(レッセフェール)と別の意味で、行政の理想も、一切の規制をなくしても世の中が成立する状況だと思います。私が何かというと、「文科省がなくなるのがいちばん」という主旨の発言をするのは、教育行政が存在しなくても、子どもから高齢者まで誰でもがいつでもどこでも学ぶことができ、社会もよくなっていくという状態がいちばんいいからです。そうなれば行政は不要でしょう。しかし、現実はまだそうなっていないから、必要なのです。つまり、お役所がなくてもいいのが理想、そう認識するか、お役所最初にありき、と考えるかが、決定的な違いになります。
 日本の官僚組織の問題点を私なりに考察してみると、法律分野や経済分野での採用が主流であるために、行政分野を専門とする人が少ない、ということだと思います。法律屋や経済屋、学校や教育行政の分野では教育屋が多数を占めているために、高度な専門性という面ではいいのですが、反面、その人たちの専門への情熱や仲間文化が強く反映されすぎるきらいがあります。
 いちがいにはいえませんが、たとえば法律屋は法に厳格で前例主義に陥りやすいとか、経済屋は経済を良くしたい一心でルール違反に対しては曖昧になりやすいとか指摘されます。同じことが、教育屋、つまり教育者で行政に携わる人にもいえるのです。
 公立学校の先生は公務員であり、行政官でもあります。それが、教育者としての振る舞いを過度に出すから、親や地域住民から信頼されにくくなるのです。法や行政の理念に従うことよりも教育者としての情熱に駆られるがゆえに、体罰をしても平気なのでしょう。教育委員会事務局の幹部にも教員出身者が多いですから、頭では法や行政理念が大事だとわかっていても、つい、教育の文脈で行政行為をするために行政機関らしい機能を果たしにくかった。
 マネジメントを難しくしているのは、こうした教育者の仲間文化が、学校における「現場経験主義」を主張させ、法律や行政の考え方を排除しようとするからです。これは根強い意識で、いまだに新聞などには、「現場を知らない文科官僚のやる改革には、ついていけない」という意見が載っています。現場を経験しなければ政策を作れないというのなら、プロの行政官は要らないことになります。しかし、実際はそうではない。
 私は教員免許を持っていない行政官ですが、国民の皆さんのニーズを承知し、法律や行政システムを使って学校現場を分析すれば、状況を改善する政策を立案することはできるのです。学校現場に、幼稚な「現場経験主義」が温存されているところに、日本の学校の真の問題点があるのではないか。私がマネジメントについて議論することが大切だというのは、こうした問題意識からです。
 
経済産業省の巧妙な戦術
 
 教育行政や学校運営の不十分な点を是正し、国民の皆さんの信頼に足るマネジメントを行っていくことが現在の教育改革の最大課題です。ところが、文科省が全力を注ぐに際し、他省庁のいささか度を超した協力(?)がありがた迷惑になり、改革を滞らせかねない恐れが出てきています。もちろん教育改革はすべての省庁と関係があり、連携を強化しなければなりませんが、相反する動きとなると、話は違います。
 ひとつは、経済産業省(以下、経産省)の動きです。日本経済の発展を支えたのが通商産業省(当時)の功績であったことは誰もが知るところです。しかし、産業構造が重厚長大型産業から、ソフトの知的産業へと傾斜していくなか、教育の領域に強い関心を払わねばならなくなっているようです。
 早くは、八七年ころから「生涯学習」の理念を産業政策に援用して塾業界の育成を図ったりしていましたが、だんだんと学校教育本体へも目を向けてきました。大学で、経済産業発展の要請に沿った教育研究を、経産省主導で進めたい。その目的のために、国立大学の独立行政法人化の方向を、外部から促進してきました。
 実は「ゆとり教育」批判で学力低下キャンペーンを展開したのは経産省なのです。政界や財界に働きかけた意図はみごとに成功し、学力低下論の台頭で文科省は批判にさらされ、信頼を低下させる結果となりました。
 また、構造改革特区が経産省の活躍に支えられているのは周知の事実ですが、そこでも、教育制度、特にマネジメント面での新しい提案が強調され、規制緩和や地方分権への抵抗勢力が文科省という図式ができ上がっています。しかし、規制緩和と地方分権を推し進めるから「ゆとり教育」は批判をあびているのです。改革を進めているときに、さらに先をいく特区制度を提案し、それに追いつかなければ抵抗勢力とレッテルを貼るのは、腹背から挟み撃ちにするようなものです。しかも特区は地方の自主性を謳いながら国の許可を得なければできないのですから、地方分権の看板が泣きます。
 
総務省の唱える地方自治とは?
 
 地方分権といえば、そもそもは総務省の大看板。しかし、役所がなくなるのが理想の社会だとすれば、地方分権が進むほどに、総務省はなくなっていくはずです。にもかかわらず、いわゆる三位一体の改革では主役のように振る舞っている。これが、まずヘンです。地方が力をつけているのだから、そちらに改革の主役を譲ればいい。そうしないのは、総務省というお役所先にありき、の論理に見えてなりません。
 三位一体改革では、義務教育国庫負担金を廃止して地方移譲することが大きく取り上げられていますが、果たしてそれでいいのでしょうか。改革の主旨は地方の自主性を縛る補助金制度を改めること。だとするならば、「総額裁量制」にして地方に対して教員給与費の最低額確保を求めるだけにしようとしているこの負担金を、いまさら地方交付税化しても効果はありません。単に配る主体が文科省から総務省に変わるだけです。
 税源移譲して地方にすべてを任せる、という案もありますが、それも必ずしもいいとは限りません。現状ですと、自主性を縛ることなく、国から一律の基準で、四〇人学級に相当するお金をもらえますから、あとは自らの努力で三〇人学級や二五人学級に挑戦できます。しかし税源移譲されると、貧しい自治体では充分な財源が得られないし、他の分野の予算と獲得競争をして、四〇人学級分を確保できるかどうかから始めなければならないのです。
 文科省のマネジメント改革が進めば解決する問題を重要視するよりは、本来のテーマである、地方をがんじがらめに縛るヒモつき補助金のあり方こそ議論すべきです。三位一体改革も必要、教育改革も必要。それぞれを最も合理的に進めてこそ、真の地方分権化ではないでしょうか。
 教育改革で解決しようとしている問題を、別の次元でいじってしまうと、かえって混乱するのです。教育委員会のマネジメントを変えなければならないことは先にいいましたが、それを教育委員会制度の廃止という荒療治で当たることも、大いに疑問です。また、市町村合併を進めるのが当事者でなく霞が関の意思であっては、地方主体の教育行政の実現が困難になる。自治体規模が小さければ、地方自治法上の一部事務組合の制度で連合を組めばいいのです。教育の意思決定をする自治アイデンティティが損なわれては、元も子もないのです。
 
よりよい教育行政に向けて
 
 私が文科省の省益などという小さな了見で経産省や総務省に自制を求めているのではないことは、「役所がないのが理想」というところからわかっていただけると思います。教育分野に関しては、土光臨調以来二〇年以上をかけて進めてきた教育改革の議論の蓄積を信頼していただきたいと思うのです。
 もちろん、国民の皆さんに信頼されるためには文科省自身がさらに努力を重ねなければなりません。経産省や総務省に任せればいい、といわれないよう、いままで以上に情報公開や説明責任を果たすべきなのはもちろんです。すでにスタートしたカリキュラム改革に、教育行政やマネジメント改革を重ね合わせることで、満足していただける教育制度を完成させていく。それが今回の教育改革の最終目標です。
 さまざまな批判を受けたり、不信を招いてきた文科省ですが、最終目標を達成し、それらを昔語りにできるよう、改革の最終コーナーを加速して走破したいと、省員全員が思っているはずです。
◇寺脇研(てらわき けん)
1952年生まれ。
東京大学法学部卒業。
文部省入省。生涯学習振興課長、大臣官房政策課長、文部科学省大臣官房審議官を経て、現在、文化庁文化部長。


 
 
 
 
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