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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2000年7月号 正論
「国民教育」の意義と使命
明星大学教授●小堀桂一郎(こぼり・けいいちろう)
 
 本稿は本年三月東京で開かれた第二十六回「日華交流教育会年次研究大会」での基調講演を成文化したものである。この会は日本と台湾との民間交流を、幼稚園から大学までの教育の分野に於いて維持し、将来も発展させて行くことを目標として設立された民間組織である。本年の統一主題が「国民教育」であるので、上記の演題を掲げることになつた。聴衆の約三割が台湾からの参加者であることを念頭に置いての演述となつてゐる。なほ本稿には明星大学助教授古田島洋介氏による漢訳(北京普通話)の成文があり、会場では同時通訳の形で口演されたものであることを付言しておく。
 
(一)「教育基本法」に淵源する道徳の頽廃
 
 「国民教育」といふこの四文字の中に、既に一箇の価値判断と、それに基いての一種の主張が打出されてゐることにお気付きであらうと思ひます。即ち、児童・青少年に教育を施してその結果どの様な人間を育成しようとするのか、といふ問を想定してみる時、それに対してどう答へるのか、その答の方向がこの文字に表現されてゐるのです。簡単に言へば、教育の目的は何か、といふ問の形が考へられ、それに対してこの標題が示してゐるのは、「国民」の育成がその目標だ、といふことになりませう。そしてこのことは、他方にこれとは必ずしも相容れない立場、教育の目的は秀れたる「個人」の育成にあり、とする考へ方があることを強く念頭に置いて発せられてゐる。それ故にこの標題を掲げることが既に一つの主張だと申すのであります。
 実は現在日本国の普通教育(小・中・高校)の公定の綱領と看做されてゐるのは、昭和二十二年三月に制定公布された「教育基本法」といふ法律でありますが、この綱領が即ち爾後の日本国の教育原理として「個人」育成の立場をとるものであることを冒頭から宣言したものなのです。その「基本法」の第一条「教育の目的」と題した条文は、〈教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない〉となつてをります。
 〈平和的な国家〉といふ表現が先づ滑稽でありまして、真理だの正義だのといふ観念的で大仰な美辞麗句が、教育綱領としては如何にも空疎にひびくことには誰もが気がついてをり、制定・公布以来五十年余を経過しながら一向に人々の脳裡に定着しない、甚だ評判の悪い目的標語であります。私も曽て自著の中で(平成四年PHP研究所刊『さらば、敗戦国史観』)「教育基本法の弊害」を論じましたところ、この第一条の分析と批判だけで忽ち三十頁余を費してしまひ、我ながら呆れたことがあります。敢へて言へば、真に教育の本質を理解してゐる人ならば、まともに相手にする気にはならぬ悪文であつて、それ故に改正を言ひ出す気にもならぬままに放置されてゐた代物なのだと言つてよろしいでせう。
 その様な悪文であるにも拘らず、この綱領が謳ふ教育目的の中に、人の耳につき易く記憶に残り易い、いくつかの印象鮮明な断片的語句があります。それは冒頭の〈教育は人格の完成をめざし・・・〉と〈個人の価値をたつとび・・・〉との揚言であります。同じ条文の中には〈・・・国家及び社会の形成者〉〈・・・国民の育成〉といふ字句も鏤められてゐるのですが、通常、人はこれらの字句には殆ど注意を払ひません。専ら〈人格の完成〉と〈個人の価値〉といふ標語ばかりを記憶にとどめます。殊に後者は、この法律の「前文」の中心部分が〈われらは、個人の尊厳を重んじ・・・〉と書き出されてゐることと呼応して、その表現効果が増幅されてゐるといふ事情もあります。
 〈人格の完成〉はこの法律全体の字眼をなす教育理念と看做されてをりますので、本来は十分な分析と批判をお話し申し上げたいのですが、何分時間が限られてをりますので省略に従ひます。敢へて簡単に申し上げますと、完成された人格とはいつたいどの様なものか、どうすればその〈完成〉を測定できるのか、この難問に答へられる人は居ないでせう。説明不可能だが耳には快い、といふところがこれが空疎な観念にすぎない所以なのですが、一言付加へますと、これは「完全な人間」といふ存在を想定して物を言つてゐる点で、キリスト教的倫理観の色彩が濃いものです。制度としての宗教教育をする用意があるわけでもない日本の学校教育の体系の中では至つて馴染みの悪い標語であります。
 ただ人々はこの語句の含む如何にも理想主義的な響きに惹かれました。そして個人主義的倫理の究極の到達点は完成された人格といふものだと合点し、〈個人の価値〉の尊重といふ標語と併せて、茲に個人主義教育の体系の基礎が築かれたと信じ、且つそのことを喜んだのでありました。
 昨今、制定後五十余年を経た「教育基本法」に対し、漸く再検討及び一部修正を要求する声が聞えてくる様になつてをります。此処で謳はれてゐる個人尊重の教育理念が、余りにも愚直に信奉された、といふよりもむしろ或る種の下心を以て意図的に誇張して標榜されたことの弊害に人々は気が付いたのです。そのゆき過ぎの結果として、日本の教育思想の中では個人主義理念なるものが、その本来のあるべき境位を逸脱して、単なる欲望解放の奨励たる利己主義の肯定にゆき着いてしまひ、そこに広汎な道徳的頽廃が発生したのであります。この事態への反省は誰しもが口にいたします。然しその反省にも亦各人各様の視角の偏倚(かたより)や解釈の深浅(ふかいあさい)があり法の条文の何処をどう修正すべきかについて、一般の合意が成立してゐるわけではありません。
 更には又、ゆき過ぎ、歪曲された個人主義倫理への反省が論ぜられる一方で、逆に従来にも増してこの方向を肯定し、教育の針路を益々この方向に向けて進展せしめ、政治理念としての民主主義と手を結んだ形での個人主義教育の徹底を図らうとする動きも認められるのです。
 例へば、内閣総理大臣の私的諮問機関として委嘱を受け、「二十一世紀日本の構想」を練り上げると称する或る委員会が、このほど懇談会最終報告なる文書を政府に提出したのですが、その中には〈二十一世紀は個人の世紀〉となるであらう、との予言とも宣言ともつかぬ判断をのべた一節があり、個人がこれまでとは比較にならぬほどの大きな力を有する世界の実現が待望されてゐるのであります。この揚言は現状肯定的であるといふ点で楽天的であり、且つ従来とかく少数者の享受するものであつた広汎な自由と行動力とが大衆全体のものになるであらうことを予言してゐる点で、大衆にとつては甚だ誘惑的なのです。古い図式に則って言へば、それは進歩的であり開明的であると映ずる性格を有してゐます。それ故に又、後に分析する様な、教育にとつての本質的な危険を孕んでゐるのでもあります。
 
(二)個人の機能拡大の現実はある
 
 〈個人の価値〉を尊重し、〈個人〉といふ存在になるべく多くの権利と力とを保証しようといふのが此処五十年来の日本の教育並に社会の目標の一でありました。ところでその目標の達成努力とは別段因果関係にあるわけではない形で、近来、社会生活に於ける個人の機能の伸長と充実といふ現象が顕著に看取できるのであります。そしてその現象は明らかに国境を越えて国際社会一般に広がつてをり、従つて是を一箇の国際的現象と看做すこともできようと思はれます。それは「個人」の社会的機能の瞠目すべき増大の現象と呼んでよいものなのですが、注目すべきことはこの「個人」が「国籍」とは無縁の位置に身を置いて機能を発揮する点にあります。「国民」といふ在り方を超えた無国籍の「個人」がそのままの形で国境を越えて機動してゐる現実に我々は驚きます。その実現以前には、全く夢にも考へられなかつた様な光景が、さり気なく現実化してゐる。それを達成せしめたのは現代の技術文明です。既にお察しのことと思ひますが、一つの例として言はんとしてゐる所はインターネツトといふ名の国際的個人情報網の急速な発達であります。
 具体的に述べてみませう。現今、私の周囲に居る若い学術研究者達の研究生活の実態は、古い世代に属する私から見て、実際、驚くべき国際的機動性を具へてをります。例へば、学生時代からつい昨今に至るまでの私の長い研究者生活を顧みて、欧米諸国から何らかの学術文献を、所謂「洋書」を購入するのは、一種独特の魅力的な行為でありました。輸入書籍商から送られてくる目録に眼を通し、購入すべき書物の題名に遭遇するまでに既にかなりの時間を費すのですが、選択が決れば先づそれを多くは郵便で書籍商に注文いたします。発注した書物が太平洋を越えて北米から、或いはユーラシア大陸の彼方から地球を半周して遙々極東の購入者の手元に届くまでに、水平路ならば五十日くらゐかかることは普通でありました。航空便を利用する習慣が普及した後でも、注文手続の煩雑さ故にやはり二・三週間から一箇月を要するのが常套でした。
 現代の研究者は、凡そ輸入書籍商なる中間者を介在させることなく、海外の卸商や出版社に直接書物を発注し、購入いたします。書籍目録の検索・選択・発注といふ行為が、コンピューターのスクリーン上でほんの数分のうちに成就します。書物の到着も、早ければ数日の内に地球を半周して実現します。支払ひにも、為替を組むわけでも、銀行の窓口に赴くのでもなく、クレヂットカードを用ゐて、全てが居ながらにして可能であります。
 私共の壮年の時代、研究生活の一端である海外の研究機関への視察・交流のための旅行はやはり一仕事でありました。明治・大正時代の先人達が用ゐた「洋行」といふ表現につきまとふ、重々しく且つ晴れがましい気分が、なほかつ心頭にまつはりつく様なところがあつたものです。ところが現在の若い研究者は、少し器用な人ならば、恰度文献購入に輸入書籍商を介在させないのと同断で、旅行業者なる中間者を煩はせることもなく、全てコンピューター端末を通じての電波操作を以て航空券を購入し、行先国の旅宿を予約し、大きな荷物は専門の運輸業者に家からの搬出までを托し、或る朝、鞄一つを手に提げて、国内の小旅行と少しも変らぬ気軽さで地球の裏側に向けて旅立つてしまふのです。
 文献探索といふ行為に関しても、現代では時として、古い世代の人間には信じ難い奇蹟が現実に生じつつあります。即ち或る文献が日本国内で入手できるか否かは、やはりコンピューターの画面上で一瞬にして判明します。十何通もの照会の書面を心当りの大学研究室や図書館に発送して返信を待つ、などといふ必要はありません。国内に無いといふことが判明すれば、次は海外に電波を発します。そして目指す文書の第何頁から何頁め迄が必要と分ってゐる場合には、その頁の複写紙を、同じく電波を以て自分の手許に呼び寄せるといふ離れ業が可能なのです。
 繰返しますが、注目すべきは、これらの交信や物流が全て「国境を越えて」行はれてゐる、といふことであります。さすがに自分自身の身柄を運ぶ時には旅券が必須であり、時には査証を要し、出国・入境には通関手続を伴ひはします。
 然し、電波操作に托して如上の交流に従事するのである限り、人は居ながらにして国境を越え、悟性と感覚の相当部分を、現実の肉身から切離して暫し異境に遊ばせ、生身の現実と殆ど変るところのない「個人の機能」の発揮とそれのもたらす効果とを享受することができるのであります。
 この様な体験を現実に重ねつつある若い世代、殊にその年齢が若ければ若いほど、それだけ一層、この人々に「国民であるといふ制約」の意識が育ちにくいことは確かでありませう。彼等の脳裡では、既に国境といふものが解消してゐるのかもしれません。国境なるものの意味を完全に没却した、自由なる「個人」のみが機能するところの、学問・技術・芸能等の普遍的精神空間が、既にこの地球上に形成されてゐるのかもしれないのです。
 かうした精神空間の形成を可能にしたのは電子工学に基礎を有する応用技術であつて、決して〈個人の価値〉の尊重を標榜した教育理念の成果ではありません。然しながら、同時並行的に展開する二つの現象の間には、往々にしてそこに現実には存しない因果関係が恰も存在するかの様な錯覚の生ずることがよくあります。教育に於ける個人主義の優越を意図し、呼号してきた一派の人々は、現今のこの没国境的知的空間の出現を以て、「個人主義の教育理念の勝利」と信じ、更に此を推進し、拡大したいと考へるかもしれません。現にその様な兆候が一部に看て取れることも確かであります。先ほど言及した「二十一世紀日本の構想」懇談会の報告書が〈二十一世紀は個人の世紀〉であると謳ひ上げたことなどはその露骨な表現の一例なのです。
 
(三)仮想現実としての純粋個人
 
 これまでに述べました様な「個人の機能」の意外な拡大とその有効性、そしてそれに伴ふ「国籍の意味の稀薄化」「国境障壁の解消」といつた現象を、私は立場上自分の身近な若い学問研究者の生態を観察材料としてお話してみたのですが、同様の現象は企業一般、情報産業界、金融業界等の至る処に広く生起してゐるでありませう。そして知的世界に於けると同様、そこに何か決定的な障礙が現れてこない限り、概して肯定的に捉へられ、希望の眼を以て眺められてゐるのではないかと思はれます。国境の解消といふ現象自体が、国際社会に於ける安全保障の条件の一と見る見解が現に存在し、又その種の見解に全く根拠がないわけでもないのです。そこには国際紛争に際しての武力行使を予め諦めさせ、事実上不可能にする様な経済的・心理的条件が潜在してゐる場合が確かにあると思はれます。
 然しながら、一見そこで国境・国籍が解消したかに見え、唯「個人」のみが構成分子である様なこの普遍空間が、知的なそれにせよ物的なそれにせよ、如何に脆く、壊れ易いものであるか、少しく歴史的想像力を働かせてみれば簡単に看破できることであります。
 壊れ易い、といふより以前に、是も亦一種の仮想現実と呼ぶ方が適当でありませう。それは謂はば電波の作る文字記号と数式の網の目の上にのみ存在する人間の表象の一種であつて、決して現実の大地の上に建設された実体としての空間ではないのです。
 この電波の網の目は、「国籍」を問はれない電子工学的な単位としての「個人」を分子として構成されたものである故に、その様な「個人」の恣意によつていとも簡単に撹乱され、破壊されることが有り得ませう。この「個人」は国家への帰属による責任の意識を持たず、匿名の存在であり、公の場に顔を晒す機会もなく、謂つてみれば「人格(ペルソナ)」を持たない、幻影に似た存在なのであります。
 「純粋の個人」とは元来一箇の観念的存在でしかないのです。それが意外にも実現したと思はれた時、人はそこに成就された理想通りの自由と有能さとの感覚に一時的には陶酔したと思はれるのですが、他方でそこに甚だ幻滅的な事態が生じてゐたことに気づいたでせうか。その「純粋の個人」には、「個人」の概念とは裏腹に、「人格(ペルソナ)」が、従つて「顔」が欠けてゐました。そこでその「人格(ペルソナ)」を形成する要素が何であるかを問ひ直してみた時、即ち彼がどういふ顔をしてゐるかを問うてみる時、浮び上って来た答は、その顔をそれとして識別せしめるのは、それが何国人の顔かといふこと、つまりその個人の国家への帰属であり、簡単に言へばその人の国籍でありました。
 自由で有能な個人の育成を目指した教育の輝かしい結実としてどの様な収穫があつたのか。無制限の欲望の解放とそれに伴ふ永遠の欲求不満。そして他方で思ひがけなくも技術的に実現した「国籍を超えた個人」に、本来期待されてゐた尊厳や価値は具はつてゐたのか、既に答は出た様に思ひます。事態が破局的なものに至らぬうちに先が見えてしまつたのはせめてもの幸ひだつたでせう。
 二十世紀の黄昏の薄闇の中に在つて、世界は、今世紀百年の経験を踏まへた反省の過程で、人間が国民といふ在り方を遂に超克できない存在であることを認識しました。科学技術の存分な援用によつて実現したのは、謂はば電子工学的個人主義の極致ともいふべきもので、それが顔のない、人格を欠いた「仮想現実」の一種にすぎないことを知つたのは実によい教訓でした。人は個人主義をつきつめた所に何が出てくるか、その様な迷夢の誘惑から次第に醒め、遠退いてゆくでありませう。
 そこで「教育の目標」を改めて問ひ直すべき機会がめぐつてきてをります。自然の廻り路として、人は個々の人間の「国民としての在り方」を考へるべきことに気がつきます。人々は国境や国籍といふ制約を超えた、世界市民的な個人の在り方に、かつては一種の普遍的教養人の型を望み見、そこに或る可能性を期待してゐたこともあつたでありませう。しかし、その可能性とても、実は国境の壁を前提として、その壁に囲ひ込まれた国民としての存在が確立してゐて初めて言ひ得ることだつたのです。今申しました電子工学的純粋個人には、最初から国籍や国民性が想定されてゐなかつたのですから、そこには元来超克の努力といふものがなく、従つて努力に伴ふ道徳的な達成感も生じ様がありませんでした。要するに人間の生産的営為としての意味は極めて薄かつた、乃至殆どなかつたのです。
 
(四)「国民教育」の再考
 
 そこで改めて「国民教育」とは何であるか、どの様なものであらねばならぬか、といふ問が浮上します。幸ひにして世界のどの国民も、様々の遅速の楷梯はあるものの、十九世紀の半ばから二十世紀初頭にかけて、所謂国民主義の時代を経験してをります。この経験を顧みることにより、その中に国民教育の原理は概ね発見できるのです。第二次世界大戦後に欧米列強の植民地支配から解放されたアジア・アフリカ州の一部の民族に於いては、この国民主義の時代の到来は二十世紀も後半に入つてからのことであり、彼等にとつて国民主義の具現は未だ過去の経験と呼べるほどの遠近法的視野を獲得してゐない、その様な実例が現にあるかもしれません。さうした例にも十分留意すべきことを認識した上で、ともかくも論を進めることにいたしませう。
 我々の経験に徴して考へる限り、国民教育の原理とは畢竟は固有の文化伝統の継受であります。教育を授ける側から言へば、遠い先祖から代々伝へられて来た文化の数々の項目を確実に、歪めることなく次の世代に受け継がしめることであります。又受ける側から此を言へば、親の世代が保持してゐる個々の項目をなるべく多く、忠実に習得して我有(わがもの)とすることです。そしてそれを亦自らの次の世代に、そのままの形で伝授することであります。
 そこで、この世代間伝授の客体とされてゐる「文化」とは何でありませうか。その数々の項目とは具体的に何を指すのでせうか。
 「文化」の今更めいた定義付けも憚られるのですが、本日の主題の脈絡に沿つて敢へてその一端を試みるならば、凡そ次の様に言ふことができるでせうか。
 「文化」とは、それを共有する人々を相互に結び付け、凝集させる役割を果す固有の生活様式であります。固有の生活様式を有するものは、それが形成するところの、それに相応した「顔」を持ちます。この「顔」が人格(ペルソナ)であり、人をしてその帰属母体を識別せしめる不可欠の契機であります。その点で、使ひ古された図式を又しても持ち出す様で気がひけるのですが、「文化」は「文明」とはやはり一種の対照をなすものです。「文明」は、そこから発する利便・効用の享受が万人に向けて開かれた、開放的な体系であります。
 「文化」とても決して意図しての閉鎖的・排他的体系を成すものではありませんが、ともかくそれを分有・共有する人々には同朋意識(同じ共同体の成員であるとの自覚)をもたらし、その分有の圏外に立つ者には文字通りの圏外者(よそもの)の自覚を生ぜしめる傾向があります。つまり自他を隔てる障壁となり得るものであります。
 この共同・分有の圏は、大きく捉へるならば、儒教文化圏とかイスラム文化圏、或いは尺度の取り方によつては漢字文化圏といつた如くに是亦国境を超えた広がりで捉へ得ることがあり、他方小さく見れば日本国内での関東文化圏・関西文化圏といつた、狭い風俗・習慣上の枠の設定も現実に生じてをります。
 然して一つの文化を共有する共同体としての代表的もしくは標準的な単位はやはり国民共同体でありませう。国民共同体は、本来現実の国家と重なり合ふべきものでありますが、実はこの等式が幾何学でいふ合同図形の様に安定して成立してゐる例は、現在の地球上では極めて恵まれた場合といふべきかもしれません。同一文化共有集団としての一箇の共同体がそのまま一つの国民国家とはなり得てゐない非運は、現にこの地球上にいくつか見受けられ、我々はその非運を直接に或いは間接に経験して知つてをります。
 同一文化の共有が何故に国民共同体、即ち国家形成の条件となるのか。その理由は簡単で、さきに挙げた文化の「諸項目」の中の最大なるものが言語=国語だからであります。それに次いで、衣食住等の日常の生活様式、冠婚葬祭の諸礼法の様式、即ち習俗の諸型が挙げられるのでありませう。
 国語にも方言と標準語の差を含めてかなりの地方差はありますものの、それは気候風土の差と結びついた生活様式や習俗の相異とは同日の談ではなく、まあ無視してよろしいでせう。国語の共有こそが国民意識形成のための最大にして最緊要の必要条件であります(しかし十分条件ではありません)。
 かう考へて来ますと、茲に統一検討主題として取り上げた「国民教育」の根幹が、具体的に問へば「国語教育」にあるべきことは明らかであります。
 そしてこの場合の「国語」が、実社会での政治・経済・流通・宣伝等の道具としての言語ではなく、自国の文化伝統を内に包蔵した宝函としての言語ともいふべきものであることも御理解頂けませう。これを生活情報伝達手段としてのそれと区別して「教育のための国語」と敢へて名付けることも許されようかと思ひます。
 「教育のための国語」の教材は、これも亦話の脈絡の必然の帰結として、古典の典籍がその主要なものとなります。但しその「古典」の定義は国文学史が言ふ所の純粋「やまとことば」のそれとは少し異なります。日本人の思惟形式は古典漢籍の読解とその国文文脈への再構成の過程を通じて形成されて来たのですから、即ち古い漢文の典籍は「日本の古典」なのです。それは恰度近代西洋の諸々の国民国家が、自分達の西欧文化の根源がギリシアに展開した古典古代と西欧の地に成熟したキリスト教的ラテン的中世にありと信ずるが故に、古典語教育をそのまま自らの人文主義的教育の基盤に据ゑてゐたのとよく似た関係であります。
 更には、現代人の言語生活の基礎と枠組とを決定してゐる「近代」の代表的文学作品も此処に謂ふ「古典」に含めて考へるほどの柔軟性が必要でせう。いづれの時代にも、国民性の本然の姿を造型し刻銘し得てゐる秀れた文学的成就は多かれ少かれ求め得るものであつて、我々はその様な作例には安じて「古典的」の称を与へてよろしいのです。
 「国民性の本然の姿」は、繁栄と富強の時代にはそれなりの姿で、窮乏と沈淪の時期にも亦その時にあるべき様の姿をとつて現れてくるものでありまして、それを典型的に定着・表現し得た記念的な文芸は「古典的」の称に値するのです。従つてこの意味での古典的な文芸作品に接することは、「国民性の本然の姿」が見失はれ、国民の多くが自らの生きる姿勢の定位についての帰趨に迷つてゐる時代の何よりの指標となるのでありませう。その指標の明示こそが謂ふ所の「国民教育」の眼目であります。
 
(五)結び――自由の条件としての国と家
 
 敢へて一の逆説を以てこの主題講演を結ぶことにいたします。
 国境の解消が望ましいことである様な希望が人々を誘ひ、国籍からの脱却が自由人の条件であるかの如き幻想が語られる今日に於いてこそ、「国民教育」の意義と使命は益々重大となります。何故ならば、国民と国家の形を明確に刻んでおかぬ限り、そこには超えるべき国境も見当らず、脱却すべき国籍の輪郭も浮び上つては来ないものだからです。
 この逆説があらぬ誤解を呼び起すことのない様に、不粋を承知の上で講者は以下のことを付加へておかなくてはなりません。即ち講者はやがて超えらるべき障礙としての国境を想起させんがために、又脱却すべき束縛としての国籍を言はんがために、国家といふ枠の存在と国民性の宿命とを説いたのではありません。それどころか、国家の枠による個人の自由の制約は、まさに個人の自由が自由として存立し得るための必須の条件だ、といふことなのです。これが今回の命題であります。
 国民性といふ刻銘も亦、個人の個性がそれとして成立し充実するために是非必要な顔=人格(ペルソナ)が具はるための前提なのです。恰度古典的な詩歌の形式性に順応し、その定型を忠実に守ることに於いて個性的な詩想が名吟としての表現を獲得するものである様に、人間の個性は国民性といふ鋳型の中に進んで身を投じ、その型の内部で充填を遂げることにより見事な硬質の造型を成就するものであります。型のない所での充填は無定形(アモルフ)の膨脹と拡散を結果するだけであります。
 国家の民であることの制約が個性を造り、自由を実現する、と見る判断の延長乃至類推として、最後にもう一つ付言しておきます。それは「家」の制約・束縛も亦、個人の自由と個性の実現のための不可欠の条件だといふ、この逆説であります。日本の所謂戦後民主主義の教育は、この逆説の有つ真理を理解し得ない、恐るべき単純と魯鈍の次元のものでしかなかつたのです。その愚かさは、家なく家族なき天涯孤独の放浪者を、誤つて自由人と錯覚し讃美する底のものにすぎませんでした。
 錯覚は所詮錯覚であります。そこには家を喪失し、血縁の親族を一人も持たぬといつた境遇に陥ちた人の底知れぬ悲哀と寂寥を思ひ遣るだけの想像力が決定的に欠けてゐるのです。おそらく、現代といふ時代が孕んでゐる人間的危険の最大なるものの一つは、家郷喪失がもたらす不幸についての想像力の欠如でありませう。それは戦後五十余年の歳月、およそ決定的な喪失の経験をしない(主観的には)で済んできた日本人に於いて特に顕著な欠陥であるかもしれません。日本人が「家」を喪ひ、国家の尊厳を失ひつつ、しかもそれを顧みない驕怠への天罰は、既に現実に厳しく下されてゐると見えるのではありますけれども―。
◇小堀 桂一郎(こぼり けいいちろう)
1933年生まれ。
東京大学大学院修了。文学博士。
東京大学教養学部教授退官後名誉教授、現在、明星大学日本文化学部教授。


 
 
 
 
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