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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1998年12月号 正論
「心の教育」わたしの意見
「心の教育」とは結局、深切な歴史教育以外のものではない―。
明星大学教授●小堀桂一郎(こぼり・けいいちろう)
 
(一)
 
 「心の教育」の再認識を強く訴へる声が到る処で揚つてゐるのが聞える。新任の文部大臣は就任の第一声として、「心の教育」をその第一の政策目標とすると宣言した。東京大学の学長として学校行政に実績を有し、学の内外から厚い信頼を得た方の言葉であるから、決して口先だけの巧言といふわけではなく、必ずや実質を伴ふ何かの抱負をお持ちなのだらう。
 文部行政の新しい姿勢にはとにかく期待をつなぐこととして、それとは別に、私は狭い書斎に背中を丸めて蹲つて甚だ冴えない思ひをめぐらしてゐる。「心の教育」といふ標語はなるほど聞えはよい。だがそこで教育を施される「心」とはいつたい何なのか。又「教育」とはそもそも如何なる行為であるのか。その点についての一般的合意が成立した上でこの新標語は人々の口にもてはやされてゐるのであらうか。
 何事にもせよ全て基礎概念から考へてみないと、世間に取沙汰される新しい概念複合の登場をそのまま直ちに承認するわけにはゆかない、といふ保守的な学校教師の癖が頭を擡げる。以下に掲げるのは肩肘張つて人前に披露するほどの値打はない、低声の独白にも似た一書斎人の感想である。多少の御参考になれば勿怪の幸ひ、さうでない場合はただ斜めに読み過して頂ければ十分である。
 基礎概念の吟味と云つても、「心」の定義を手がけたりしようものならそれだけで一巻の書をなしてしまふ。さすがにこれは敬遠しておかう。少くとも、「教育」とは何だらうか。先づ文字の上からこれを見るに、「教」は白川静氏の『字統』によれば、爻と子と攴とから成る。爻は屋上に千木のある殿舎の象形で、神聖なる秘密結社的な空気を漂はせた学舎の中に一定年齢の子弟を集めて、長老の権威を以て攴の字が示す如くに氏族の伝統や生活の規範を頭に叩きこむことださうである。そこには施す人から学ぶ者へ向けての、何か知的熱量の如きものの流れの存在が前提されてゐる。その流れの中で或る「受け渡し」が行はれるわけだが、受ける側からすればこの行為を通じて「学び」又「習ふ」のであり、授ける側からすれば知を「施す」わけで、この知を施す行為が即ち「教へる」ことなのだ、との説明になる。
 ここで授受される内容は、教へる者と学ぶ者とが共に身を置いてゐる一つの共同体、これを国家と捉へても、又民族とか社会とか捉へても大した違ひはないのだが、その共同体が成員の共有する精神的財産として前代から受継いでゐる、知識や慣習や道徳の諸項目といふことになるであらう。
 一方「教育」を構成する一方の字「育」は、冠部分が「子」の字の顛倒形で、生れてくる子の安産の姿を表し、それに月(肉づき)を添へて、子を肥らせるの会意になる。つまりやしなひそだてる、を意味する。かうしてみると、この二つの字から組み立てられた「教育」の概念は、先代、先々代、更に遡つての遠い時代から共同体が持ち伝へてきた精神的財産を次の世代に伝授して受け継がしめることと、それに併せて教育の対象となつてゐる児童を個体として健全に成長せしめるといふ目的を兼ね備へた行為だ、といふことに解されるであらう。
 一般に教育の構造は、知育・徳育・体育の三系統から成ると理解されてゐるが、前二者が精神的財産の継受に、後者がそれと直接には関係のない、生物的個体としての児童の育成について考へられてゐることは、改めて確認するまでもないことだらう。
 ところで、今試みた如き概念の分析を、西洋世界に流布してゐる教育といふ詞に施してみると、次の様なことになるであらうか。
 即ち、英・独・仏といつた主要な西洋近代語における「教育」といふ語は、education, Erziehung, educationのいづれもがラテン語のeducareから出てゐる。ラテンの元来の意味は中から外へ「引き出す」である。従つて西洋世界に流布してゐる教育の概念は、古代から近代に至るまで、個人の素質の中に潜んでゐる将来に向けての諸々の可能性を引き出す、つまり、眠つた状態にあるものを眼覚めさせ、展開させ、十分に実現させる作業を教育といふのである―と、かうした把握になるのであらう。
 このやうにみてくると、教育といふ概念の基礎の発想からして既に、西洋では個人の能力の発展を第一義に考へるのに対し、東洋漢字文化圏では共同体共有の知的・道徳的財産の継受と持続を主眼として把へてゐるといふ顕著な異同が看て取れる。図式化を敢へてするならば、西洋の個人主義的、東洋の集合主義的教育観は既にその名辞の字面に表れてゐるのである。我々が今日現代の一般的文脈の中で「教育」をいふとき、この両局面のいづれの方に重きを置いて論じてゐるのか。両者の弁別については、一応の自覚を有してゐる方がよいのではないかと思はれる。
 
(二)
 
 全て図式的な物の見方について共通に言へることであるが、東西二つの文化圏に見られる教育概念の対照的特徴は決して固執して考へるべきことではない。西洋に於いても、教育に於ける知的伝統の相承が軽視されてゐるわけではなく、東洋に於いて個性の展開と充実が蔑ろにされてきたといふわけでもない。ただ教育といふ営みの基本的な把握に関して、東西両洋の文化圏はそれぞれに特徴的な傾向を示してゐると見たまでのことである。
 二つの文化圏相互の間に生じた交渉・接触は既に漢代の「絹の道」の存在や、唐代の景教(ネストリウス派キリスト教)の伝来がその活発だつたことを立証してゐる。だがそれは何と云つても限られた数の伝道僧や冒険的商人団の活動に依存した特殊な現象だつた。社会全体の生活万般に影響が及ぶ様な広範囲の文化接触の開始は、やほり十六世紀に入つてから、いはゆる大航海時代の西力東漸の波動が実際に東半球に及んできてより以後のこと、と見るのが妥当であらう。
 文化接触の現象は全て、あからさまに眼に映ずる部分、即ち珍奇な商品の流通や、衣食住の具体性を帯びた風俗習慣への異国情調の影響といつたところから始まつて、やがて徐々に、眼に見えない内面の器官が受ける刺戟と反応の葛藤に及んでゆくものである。
 日本の史実に即してこれを見るならば、十六世紀半ばに生じた日本と西洋世界との接触を記念する最初の、眼に見える文化史的現象は、ポルトガル人による鉄砲の伝来といふ事件である。鉄砲はまさにこれを見る人の耳目を聳動せしめる閃光と轟音の大事件だつたであらう。鉄砲の実用的効果は、戦乱と武闘に明け暮れてゐた戦国時代の日本の武士達の世界に革命的な戦術の変化をもたらした。日本人は驚くほどの呑みこみの速さと手先の敏捷さを以て、この新渡来の技術を自分のものにした。ポルトガル人の実演による鉄砲への最初の驚歎を経験してから、彼らが島を去るまでの五箇月間に、種子島では既に六百挺の鉄砲が製造されてゐたといふ。これは天文十二年(一五四三年)のことである。それからわづか三十二年の後、天正三年(一五七五年)長篠の戦で武田勝頼の軍勢を撃破した織田信長は、推定ではおそらく当時の世界最大級の鉄砲隊を擁する軍団を操練してゐた。鉄砲隊約一万、そのうち三千が生えぬきの実戦部隊だつたといふから、信長のつくらせた鉄砲の総数も少くとも三千挺を越えてゐたであらう。
 しかしながら、鉄砲を生み出した技術の基盤にある化学、物理学、力学が、その抽象性のままに、即ち眼に見えない形で日本人の自家薬籠中の知識となるまでにはなほかなりの年数を必要とする。では何年かかつたのか、と具体的な数字を挙げて論ずるのは、指標の取り方もいくつか考へられるので一寸厄介であるが、ともかくも、眼に見える技術の習得と、眼には見えないその原理、及び原理を発見した思想それ自体の理解とは、不思議なことに或る意味で別の作業なのである。
 
(三)
 
 鉄砲の技術の習得と、原理の領会との間に存する必要時間の差といふものを考へてみるとき、徐ろにわかつてくることなのだが、文化接触の現象に於ける、眼に見えるものと眼に見えないものとの差は意外に大きい。
 そこで次に本稿の主題に関はる部分に感想が及ぶのであるが、日本人は鉄砲伝来より六年ほど遅れて、同じくポルトガル、スペイン、そしてイタリアといふ南欧カトリック文化圏からのキリスト教の伝来といふ事件に遭遇した。すると再び、眼に見えるものとしてのキリスト教はかなりの勢で日本国内に普及してゆく。
 西日本を中心にキリシタンの教会堂は各地に建てられ、最盛期には京都にすらも四条坊門の地に南蛮寺が建立されてその跡は今日でも史跡として位置を確認することができる。さうした会堂ではイエズス会の黒い修道服を着た神父が説教壇に立ち、祭壇には聖母マリアの像が掲げてあり、西洋の弦楽器が奏でられ、日本人には珍しい異郷の薫を漂はせる香が焚かれたりもした。しかし、日本人はキリスト教の眼に見えない部分、即ち自分達の神々や仏の世界とはまるで異質のものである一神教の教理については、実は根本的に理解を欠いてゐた。
 イエズス会は日本に学校をも作つた。九州の豊後府内にはコレジオと呼ぶ大学を、そして西九州の島原半島に、天草の島に、又織田信長の勢力の最盛期、実は横死直前の時期には都に近い安土の城下にまで、セミナリオと呼ぶ神学校を開校したりもした。これらの学校では当時のヨーロッパの学問の体系・制度を忠実に反映した自由学芸(リベラルアーツ)七科が教授され、研究部門の推進すらあつたのだが、そのことの地球史的意味は日本人の眼には映らなかつた。
 イエズス会の布教活動がこの様に活発化してから後間もなく、或いはその盛況に誘はれた様な形で、より冒険的なスペインのフランシスコ会の修道士も亦日本に乗り込んでくる様になつた。既に生じてゐた神社仏閣の破壊といつた文化的劫略と、それに加へて更には現実の武力的侵入の危険すらあるのを察知した豊臣秀吉は、布教運動への圧迫、宣教師達の国外追放といつた自衛の措置を始動させた。そこでこれらイエズス会の学校の活動はいづれも極く短命に終つた。西欧近世の大学を支へてゐた人文主義的教育思想は、僅かながら当時の文献中にはつきりとその痕跡を残し、現在貴重な精神史的史料として高い評価を受けてはゐるものの、同時代に於いて、日本在来の教育思想に影響を及ぼすといふほどの力は持ち得なかつた。
 やがて十七世紀の前半に、日本は南欧カトリック文化圏の国々とは、宗教・文化にわたる交渉はもちろん、商業上の交易を一切断ち切る。そして唯一、日本への入国・滞在を認めたオランダの商人達から(実はその中にひそかに混つてゐたドイツ人・スウェーデン人の学者の役割が大きいのだが)或る基準に基いての選択を加へた上で海外情報を取入れるといふ機構を構築し、十九世紀の半ばまでの二百年間、この姿勢を変へることがなかつた。
 
(四)
 
 かういふ次第で、日本人はキリスト教といふ西洋精神文化の基盤をなす要素との接触に、現在まで既に四百五十年の歴史を有するのであるが、それにも拘らず、その教育思想の根幹をなす、個人存在としての人間の育成といふ原理についての理解にはなかなか到達しなかつた。西洋的人間観の根底にあるこの教育理念の意味に気がついたのが十九世紀半ばのことだつた。それは当時の日本人には新鮮な発見の如くに映つたし、当時の西洋列強と、極東に孤立した小さな島国たる日本との国力の上での甚しい較差をそつくり反映させて考へると、意志に於いて知力に於いて「強い」人間を育成するためには、この西洋的個人主義は極めて効果的な方法上の原理だと思はれた。
 爾来、日本人は西洋的教育原理に強い魅力を覚え、しきりにこの原理の発する効果を研究し、実践にも応用しようと努める様になつた。中村正直の訳したS・スマイルズの『西国立志編』(明治四年)の原題たる「自助論」の思想は、本書第一編の冒頭に記された〈天は自ら助くる者を助く〉の格言と相俟つて強い説得力を以て青年層の心広くに浸透した。一方福沢諭吉が空前の大ベストセラー『学問のすゝめ』(明治五年〜)の中で〈一身独立して一国独立す〉と唱へたことは、自由なる意志を具へた個人の存在が富国強兵の国是の支柱となるのだとの理法を会得させて人々を感奮させた。自主の権を以て自立せる自由な個人の確立といふ掛声は、明治初年のこの両書から始まつて、近代市民文学が最も好んだ主題、といふよりは殆んど百年にわたる日本人の固定観念ともいふべき標語になつた。
 昭和二十年の夏に、日本はそれまで取つて以て国造り人作りの模範としてゐた西洋諸国との戦に、遂に力尽きて敗れた。日露戦争の収拾を機として盟友から競争者の関係に変つて以来四十年の根深い確執と対決、昭和十六年十二月以来三年九箇月の熾烈な全体戦争(トータルウォー)の結果だつた。この時、連合国の主要部分を構成するアングロサクソン人種の方が、やはり我々アジアの一員たる日本人よりも強かつたのだ、我々は民族を挙げて彼等の強烈な意志と膂力とに敗北したのだ、といふ苦い認識が生じた。全体戦争での敗北に続く陰湿な軍事占領の結果、日本国は国体の表現である憲法に致命的な深い傷をつけられ、経済の基盤を掘り崩され(この部分ばかりは奇蹟的な再生を成し遂げたが)、家族制度を基幹とする社会の構造にも到底歓迎できない様な多くの機構の変革を強ひられた。
 制度・機構が外形上どの様に変らうと、本来そこで営まれてゐる人間の現実生活の内容には大して影響がない、といつた事例も少なからずあるのだから、我々の現在の社会生活の中の多くの翳の部分にも、これを占領の後遺症と認めるのは公正でないといふ例もあらう。しかし、数ある占領後遺症の中でも、教育の制度と方法と、中でも理念の上に生じた変化は、単なる不利な影響といふ程度の表現ではとても覆ひつくすことのできない深刻な傷痕を日本民族の精神に刻みつけた。我々は現にこの傷によつて苦しみ、それは果して元通りに治癒することが可能なものなのかどうか、その見込みすら立たないといふ暗い予感に更に又苦しむといふひどい状況に陥つてゐる。
 
(五)
 
 前記の如く、東洋の伝統的教育理念は先づ子弟に物を「教へる」ことだつた。それは溯つて遠い上代からつい前代までの、民族の歴史が蓄積してきた知的・道徳的遺産を、できる限りそのままの形で次の世代に継承させてゆく努力を意味する。人間とはよくしたもので、その様に前代までの遺産をひきつぐことを強制されたからといつて、決して過去の精神の複製の如き人間ばかりが育つてくるわけではなく、強制の圧力をかいくぐり、或いは押しのける様にして、必ずや独創的な個性が成長してくるものである。その場合には又伝統の圧力に対する反撥力こそが創造的活力に転化するのかもしれない。
 翻つて言へば、仮に西欧的教育理念を徹底的に実践に移すこととして、専ら一人の個人の素質にひそむ独自の可能性の伸長といふ目標に力点を置いて教育を施してみたところで、教育を施す側に存する伝統の蓄積は自づからなる教化力を発揮して、受ける側に向けての影響力を発揮しないではゐないであらう。さうであればこそ、標榜する教育の原理が如何なるものであれ、西欧文化圏に於いても亦、伝統の継承は立派に行はれ、古代・中世の精神的遺産は今日なほ逞しく生き続けてゐるのである。
 日本を先陣とする東アジアの国々で、十九世紀の後半に始まつたいはゆる近代化の運動は、何分その模範を西欧に仰いだが故に、近代化とは即ち西欧化に他ならなかつた、と言はれる結果を招いた。教育の分野に於いても事情は全く同じであり、個性化の原理の魅力は依然として東洋を魅惑し続ける。東洋が意志と知性の力の強さの点で西洋を優者と認め、これに対する競争的・挑戦的姿勢を保たうとする限り、教育理念における西高東低の傾斜が逆転乃至水平化する可能性は乏しいだらう。
 個人の中に蔵されてゐる素質の伸長と展開を眼目とする教育を考へてみるとき、その素質とは当然ながら知力と体力とに関はるものである。天才的な運動選手を育成する話ならば、体力の教育について語るべきこともあり得ようが、この領域に関して筆者は一向に不案内であるからさて措くことにして、個人が持つて生れてくる素質としての頭脳の働き、想像力や独創性や機智といつた才能は、確かに研磨の仕方如何によつてはそこからどんなに鋭利な叡知の刃が鍛造されてくるか、教育に携はる人間にとつては又とない素晴しい創造の業の素材なのだと言へるであらう。
 而してここに一つ留意しておくべき事項がある。人間は知恵については、測り知れないほどの大きな可能性を孕んでこの世に生れてくる個体があり得るのだが、道徳性については、その因子は生物としての人間に生来具はつてゐるものではない、といふことである。つまり徳性は自然存在としての人間の内部からeducareしてくることはできない。それは先天的な性質としてではなく、後天的な獲得形質として、個々の個体に「教へ込む」より他にこれを涵養する方途はない。
 知力といふものが、究極的には個々の人間が同種間の激しい競争に耐へぬいて生きてゆくための必要として、本能の中に内蔵されてゐる能力であるのに対し、徳性は人間の生来の素質の中に埋め込まれてあるものではない。それは元々個人の外部にあり、教育によつて個人の内部に取り込まれ、そこで初めて道徳といふ形と意味とを具へた性質に開花してゆくものである。そしてこの徳性の萌芽を、個人に萌芽として提供し、教育を通じての「刷り込み」を準備する外部の環境が、その民族の文化伝統と呼ばれるものなのである。
 
(六)
 
 日本の「近代化」運動は、その実情を見るにどうも「西欧化」と、それに加へて「アメリカナイズ」ともいふべき動きに結果としてなつてしまつた。風俗や嗜好の面に於いて、明治の「文明開化」謳歌時代からその傾向は顕著に認められたが、日米戦争停戦後の占領時代にはその傾向は習俗の表面のみならず、人生観や生活心理のより深い層にまでその浸触が及んだ。その結果として日本の社会は欧米流の強い人間を育成することには一応の成功を見た様である。但し「強い」と云つても、それがこの詞の積極的な意味での強さを意味し得るのかどうかは疑問である。
 実は単に、自己主張の術に長けてゐる、権利意識が強固である、他人を押し退けて我欲を立て通してゆく強引さを具へてゐる、等々の次元での強さであるらしいのだが、とにかく社会は強者で充満した。弱者と云へば老人と病人と幼児に限られることになり、これらは謂はば規格外の存在だから、そこで近代化社会の教育は、人間一般を強者に仕立てるといふ目標にかけては確かに輝かしい成功を収めたといふことになる。
 近代化教育の成果万歳――と、凱歌を揚げる教育界の声が聞えてくるやうで、我々もそれに唱和すべきだらうか、と一瞬は考へる。だが忽ちに、一寸待つてくれ、との発言を求めざるを得ない。
 近代人は確かに強くなつた。だがそれによつて少しも幸福になつてはゐないやうである。これはいつたいどうしたことか。
 答は実は簡単である。自己の欲望を貫徹し実現する強固な意志、その目的実現のために活用される鍛へぬかれた知恵、目標に向つて邁進する脚力と腕力。かうしたものは全て、人間を強者にする条件ではあるが、しかし決して彼を幸福にする条件ではない。
 現代人は皆、どうやら強者であるにも拘らず幸福ではない。むしろ強者なるが故に不幸なのだといふ苦い逆説を噛みしめてゐるやうに見える。一般に強者に対しては、同じく強さを競ふ仲間のうちから常に嫉妬や猜忌や憎悪が浴せられるばかりで、優しさのこもつた共感といふ幸福な感情が彼を包んでくれることは稀であるか皆無である。
 人なみに世間に立ち交つて人々の出処進退をつくづくと眺めながら、私は時に不思議な、怪訝の思ひに堪へないことがある。人々は何故幸福を求めることをしなくなつてしまつたのだらう?幸福は今や人々にとつて希求すべき普遍的な価値ではなくなつてしまつたのだらうか?幸福であることを捨ててまで、それに代へて追求したい名利や権勢といふものがあるものなのだらうか?
 思ふに、人々は本気で幸福を避けてゐるわけではあるまい。幸福よりも地位と権力を選ぶのだ、と明白に思ひ定めてゐるわけでもあるまい。おそらくは、ただ強者たらんとする意欲を肯定し、その意欲に力を添へてくれる教育をば受けてはきたけれども、幸福になる術を身につけさせてくれる教育は授けてもらはなかつた、といふそれだけのことなのだらう。即ち「心の教育」を受ける機会に遭遇しなかつただけなのだ。
 「心の教育」が欠落してゐたことに気がついたのは、しかしせめてもの救ひである。今からでも遅くはない。「心の教育」を再興して、言葉の素直な意味での幸福を希求し、実現する意欲を人々に、とりわけ若い世代に取返してやりたいものである。
 
(七)
 
 では具体的にどうすればよいのか?
 「心の教育」とは云ふが、「心」とはいつたい何なのだ?冒頭で述べた様に、たださへつかみにくい「心」といふものの正体を把握できないのに、どうしてその「心」を対象とした教育の方法などを論じることができようか?しかし、この様に理詰めに考へをめぐらしたのではおそらくは誤る。
 敢へて簡単に答へることを試みよう。我々は「教へる」ことに立ち返ればよいのだ。我が民族の教育とは西洋文化圏に言ふところのeducareではない。「教へ」である。千木高知りたる瑞(みず)の御舎(みあらか)の床に子供達を集め、その脳裡に師が教へを叩きこむこと――師から弟子へと通ずる交流回路の中で、民族の文化伝統として蓄積された経験の宝を授けてやるのが教育だ、と、この東洋の教育原理に立ちもどつて考へればよいのである。
 授けてやるべき宝とは、民族の文化伝統が帯びてゐる経験の蓄積だ、と述べたが、これを具体的に云へば歴史である。歴史とは我々の先祖が生きてきた姿の記録に他ならない。この記録を点検してゆけば、そこに我々の先祖達の「心」の姿を読みとることができる。
 「心」の定義は難しいが「心」のあり方の実例を豊富に提示することは容易である。先祖の「心」を読み取り、それを次の世代に確実に語り伝へてゆくといふ教育の形態は、なるほど、弟子の素質の中にひそんでゐるかもしれぬ可能性を抽き出し、展開させるといふ形をとるのではない。さうではなくて素質といふ下地の上に、外から色彩と模様を塗り加へてゆくといふ手法によるものである。その色と模様は共同体に共有されたる慣習と作法を基調とする。これは前記の図式で言へば徳育の手法である。さうなると、「心の教育」とはつまり道徳教育であり、その教育の材料は我々の共同体が伝へ持つ父祖の歴史に他ならない、といつた構造がここに見えてくる。
 さういふわけで、「心の教育」を実践できる教師は、先づ第一に自らの民族の歴史に精通してゐなくてはならない。少し乱暴に言へば、その教師は教育学・教育心理学といつた教育技術の分野については何らの専門的知識がなくても構はない。彼に求められてゐるのは唯一つ、正確にして深切な自民族の歴史についての造詣である。
 「深切」は福沢諭吉『学問のすゝめ』第三編に〈独立の気力なき者は国を思ふこと深切ならず〉とあるのを見て以来、筆者の好きな詞だが、他にはあまり見馴れない字遣ひかもしれない。これは元来『中庸章句』の最後の章(第三十三)の評注に出てくる。〈蓋し一篇の要を挙げて、約して之を言ふ。其の反復丁寧、人に示すの意、至りて深切なり。学者其れ心を尽くさざる可けんや〉といふ形である。心の教育として、徳育として行はれる教育の教材は民族の精神の歴史であることが必要にして且つ十分の要件である。ただこの教材を扱ふに際しては、講説の任に当る教師が或る種の敬虔さを以て歴史に接すべきことを要求する。その敬虔さが講説の態度の「深切」となつて表れるのである。
 社会科学の方法が歴史学の分野に侵入する様になつて以来、或いは歴史家達が社会科学の持つ一見実証科学的な正確性の外見に媚び、色眼を使ふ様になつて以来、歴史学は妙に傲慢な学問になつた。直接的な経験としての認識が成立つわけではない過去の事象について、それにも拘らず、全て解明できないことはないのだと言はんばかりの自信を示す。それだけでも十分に罪深い思ひ上りだが、更に許し難いのは、彼等が、自分達の父祖の築いてきた歴史に対して、往々にして道徳的価値判断の審判者を演ずることである。覆つた前車の轍をふまざらんがための自戒の資を採り出す、といふのならば、それはむしろ歴史学の実利的効用としてさもあるべきことである。しかし歴史を裁かうとする学者は、限りある人間の身として、それがどんなに不遜な振舞であるかといふことにおそらく気がついてゐない。この不遜さは、学問の権威によりかかり、それを笠に着て傲慢となるといふわけでは必ずしもない。ただ後世に生れてきただけといふ利点を以て然る態度に出るのである。現代人ならばどんな凡人でも、一般的な知識・情報の保有量は孔子様よりは多い、といつた類の優越性でしかない。
 教師の側にこの種の浅薄な思ひ上りがある限り、民族の歴史を教材としての「心の教育」は不可能だらう。だが、このことを更に反転させて言へば、これは再確認として記しておくのだが、「心の教育」とは少しも難しいことではない。特殊な技術も専門的知識も必要としない。敬虔に自国の歴史を顧みて、幾多の聖賢・英雄・仁人の事蹟のうちに、次の世代に語り伝へるに適しい精神の高貴を読み取るだけの眼識さへあれば、そしてそれを深切に児童に語りきかせてやる心づくしを働かせさへすればできることである。
◇小堀 桂一郎(こぼり けいいちろう)
1933年生まれ。
東京大学大学院修了。文学博士。
東京大学教養学部教授退官後名誉教授、現在、明星大学日本文化学部教授。


 
 
 
 
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