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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2002年5月号 正論
「ゆとり教育」が日本を衰亡させる
四月から実施される新学習指導要領によって子供たちの未来は台無しにされる!
 
明星大学教授 小堀桂一郎(こぼりけいいちろう)
福岡教育連盟事務局長 木村貴志(きむらたかし)
 
国語力の軽視が招いた基礎学力の低下
 
 木村 平成十四年四月から全国の公立小中学校で、新学習指導要領に基づいた学習内容三割減の、いわゆる「ゆとり教育」が実施されます。私は高等学校の教師ですから、いずれその「ゆとり教育」の課程で学んだ生徒を受け入れて教えていかなければなりません。前回学習指導要領が改訂されたのは平成元年で、小学校は四年度、中学校は五年度から実施されましたが、先輩の先生方の感想を聞いても、その教育課程で学んだ生徒たちが高校に入ってきた頃から、学力低下と行動様態の変化、端的には自分勝手な問題行動≠ェ生徒の間で多く目に付くようになったといいます。してみると、今回の改訂がどのような結果を招くのか恐ろしい気がします。
 「ゆとり教育」が学力低下を招くという実証的データはないと文科省は言い張っていますが、ごく初歩的な文章が読めない、書けない、分数や小数の計算ができないといった生徒への教師の危機感は相当なものです。
 私が初めて国語の教師として高校の教壇に立ったのは平成元年ですけれど、生徒たちの質問に大いに驚かされたことが度々あります。たとえば「一秒で十センチ動く物体があります。一時間で何メートル動くでしょう」という物理の問題が分からないという。正直、「えっ?」という感じです。それで「一時間は何秒だ」と聞くと、「分かりません」。「では一分は何秒だ」と聞くと、ちょっとむきになって「六〇秒です」と答える。「一時間は何分だ」と聞くと、「六〇分です」。そこでやっと「六〇×六〇=三六〇〇秒」という解答への端緒が出てくる。
 程度の差こそあれ、現場にいると、こうした基礎的学力のない生徒が増えているという実感は拭えません。そもそも学校が「学力」というものを重視し、その向上を図らなくてどうするのかと私は思います。世間は今の子供たちに「ゆとり」がなくてかわいそうというイメージを持っているようですが、今や宿題もない、厳しい生徒指導もやらない、みんな仲良く生徒も先生も対等に、といった感じの緩んだ教室の風景からすれば、そのイメージにどれほどの実体があるのかと反駁したくなります。すでに「ゆとり」だらけじゃないかと。とくにここ数年は、現場と教育行政のズレを痛感せざるを得ません。
 小堀さんが編著者になられた『「ゆとり教育」が国を滅ぼす』(小学館文庫)を拝読しましたが、私の実感をそのまま警鐘として打ち鳴らしてくださっていると思いました。新学習指導要領が内包しているさまざまな問題を親たちがどれほど認識しているか。わが子の未来を台なしにしかねないことにもう少し危機感を持つべきです。
 
 小堀 学習指導要領で初めて「ゆとり」という言葉が使われたのは昭和五十二年の改訂時です。前年十二月に「教育課程審議会」が三年余にわたる審議の末に、当時の永井道雄文部大臣に提出した答申に基づいて行った改訂で、その答申の中に「児童生徒の学習負担の適正化から教科内容の徹底した精選を行う」として「ゆとりある学校生活のために授業時間を削減すること」という趣旨がすでに盛り込まれています。
 すでにこの「適正化」と「精選」という方向づけのかげに隠れて、教材の偏向と劣悪が加速されたのです。さらに問題なのは実は「ゆとり教育」の旗印はこんなにも早くから掲げられていたということです。ただこの時の学習指導要領改訂は、文科省がこの度強行≠オたものほどに過激なものではありませんでした。総授業時間数でみれば小学校四年生以上で約一割、週当たり三十三時間が二十九時間に削減された程度です。これが学習塾の繁盛につながります。
 この「ゆとり教育」の流れがいかに危険なものであるか、問題の深刻さが国民の間ではっきりと認識されるようになったのは、西村和雄氏他編の『分数ができない大学生』『小数ができない大学生』という姉妹編の二著が世に出た平成十一年から十二年の頃ですね。文科省が何と言おうと学習内容の新たなる三割削減が予告される以前から、日本の学生・生徒、殊に理数系分野での学力低下に対する危惧は先駆的な具眼者によって精細に調査され、公然と警告されていたわけです。
 私も産経新聞の「正論」欄(平成十二年四月二十日付)で、「『新指導要領』の実施を危惧する」と題する小論文をもって訴えましたが、文中で「いつたい何処の何者が、この様な日本の教育そのものを破壊する謀略を企んだのか。思へば恐ろしいことである」と、いささか刺激的に書いたこともあってか相当の反響がありました。先ほど木村さんは現場と教育行政のズレを指摘されましたが、むしろ普通の国民のほうが問題の深刻さに気づいていると思います。
 
 木村 いささかシンボリックに取り上げられすぎた感はありますけれど、台形求積の公式の排除や、円周率を3・14ではなくただの3として計算させてもよいという乱暴な処置≠ェ、現実に新学習指導要領では行われるのだという新聞報道や問題の核心を衝いた本の出版が相次いだことで、国民の間に関心が高まったことは確かだと思います。
 
 小堀 木村さんは国語の先生でいらっしゃるのですから、こんなことを言うのは釈迦に説法ですが、基礎学力というのは、つまるところ国語力の問題に帰結すると私は思っています。十年以上前のことですが、小学校の理科や算数の教科書を読む機会があって気づいたことは、文章としての日本語がまるでなっていないのです。それから漢字の使用を極力避けている。理科で使う「溶媒」とか「飽和状態」という言葉を何とか和語で表現しようとしている。
 その試みを私はまんざら否定はしませんけれども、せっかく日本には長い歴史を経て学術用語として定着したさまざまの漢語の学術用語があるのに、それを用いないのは学問の歴史における貴重な知識の蓄積をないがしろにするものです。「漢字制限」の後遺症もあるのでしょうが、この一事をとっても、やはり学力低下の第一の原因は国語力の軽視にあるという気がします。
 ある会合で企業の人事担当者が、「国際化の時代、最近の大卒社員の英語力では外国に太刀打ちできない。なぜ小学校からもっと英語を教えないのか」とこぼすのを耳にし、ちょっと待ってくれと私は言いました。「英語よりも国語をきちんと使えるようにすることが先決です。国語が満足にできないのに、それを上回る英語能力を持つことがあり得るとお考えか」といささか強い口調になってしまったのですが(笑い)、国語力こそがすべての学問の基礎になるものです。「ゆとり」を言う前に国語教育の充実をこそ図れと私は言いたいですね。
 
 木村 まったく同感です。母国語の能力を超えて外国語が身につくということはないでしょう。授業で辞書を引かせたときに、「英単語の訳の日本語の意味が分かりません」という生徒がこれまたずいぶんいることに驚いた経験がありますが、日本語の基礎的能力のない生徒に対しいくら英語教育を熱心にやっても効果は期待できない。
 
 小堀 辞書を引いても日本語の意味が分からないという学生がいるのはこの頃の大学も同じです。外国語の授業中に、「この場で辞書を引いてみろ」と言ったところが、「説明の漢字が読めません」と悪びれもせずに言うのです(笑い)。
 
 木村 私たちまでの世代と違って今の子供たちは、国語辞典や漢和辞典を引いて調べるということをしません。分からなければ聞けばいいという態度です。知的なものに対して能動的でなく、あまりにも受け身です。
 
漢字を使うことはそんなに負担か
 
 小堀 昭和二十一年三月、占領下で米国の教育使節団が日本各地の小学校を駆け足で視察しました。彼らは漢字に馴染みがありませんから、「漢字は難しい。その漢字をたくさん子供たちに覚えさせるのはかわいそうだ」と勝手に思い込んで、さらにこんな漢字というものに縛られているから理数系の教育が立ち遅れ、日本は科学技術においてアメリカに負け、戦争にも負けたのだと結論づけてしまった。われわれからすれば余計なお世話ですけれど、彼らは「漢字制限」を考えて日本に指導≠オたわけです。敗戦という事実の前に自信を喪失していた文部省の役人たちがまた、簡単にそれに迎合してしまった。
 残念ながら本心からそれに唱和する日本人もいました。戦後、国語改革論者らの議論の方向は、「漢字を使っていてはいつまで経っても欧米の科学、工業力に追いつくことはできない。漢字をやめ、漢字の学習に当てられている時間を自然科学、工業技術の学習に当てなければ百年経っても常に欧米の後塵を拝さねばならない」というものでした。
 そもそも漢字は難しい、漢字を記憶することが負担になって理数科等の学力に響くということ自体が大変な誤りです。世界的な漢字教育者で、菊池寛賞を受賞された石井勲さんによれば、漢字を覚える能力は幼児期が最高で、しかも知能を著しく発達させる効果があるそうです。
 石井さんは高校の先生として生徒の学力に疑問を持ったことから中学校に転じ、さらに東京都教育委員会の指導主事になって新制中学校の現場の視察指導に当たった人です。そのときの経験から、生徒の半数が数学、理科社会の教科書が満足に読めず、内容も理解できないのは漢字が読めないからであり、漢字が読めないのは小学校の国語教育に原因があるからだと考えたといいます。
 そこで小学校の先生に転じて十五年間現場で教えた結果、「一年生が一番よく漢字を覚え、学年が進むほど低下する」ことを発見された。当時、文部省が六年かかって教える漢字を、一年生は一年間で八割方覚えてしまったことに石井さんは驚き、ひょっとしたら就学前の幼児ならもっと覚える能力があるのではないかと思い、昭和四十二年に小学校を退職後は幼児教育に専念しながら心身障害者や、ついには零歳児にまで漢字教育の領域を広げておられる。
 石井さんの実証は、漢字は難しくて覚えるのに困難という思い込みを完全に打ち砕くものです。子供にとっては負担どころか、むしろゲーム感覚でどんどん能力を高めていく。寿司屋に連れて行ってもらった子供が、よくある大きな茶碗にびっしり焼き付けられた魚偏の漢字で魚の名前を覚えるのを楽しみにしたり、相撲の好きな子供が相当に難しい漢字も使われているのに、力士の四股名をみんな覚えてしまったりという例が身近にありますが、負担だ、困難だと大人が決めつけて、初めから子供たちに低い水準の学習の機会しか与えないとすれば、それこそ子供たちをスポイルするものでしょう。
 
 木村 本を読んでいて読めない漢字や意味の分からない言葉が出てきたとき、その前後の文脈から何とか意味を理解しようと頭を働かせたり、調べたりすることは、本来は知的にとても楽しいことだと思います。
 
 小堀 楽しいことなんです。しかも、それを助けるために日本ではきわめて早くから振り仮名≠ニいう印刷技術が発達していた。よく「自分は昔、貧しくてろくに教育を受けられなかったが、新聞記事に振り仮名があったからそれを頼りに文字を覚え、それによって国語力をつけることができた」と言う立志伝中の人物がいますが、それは本当のことだったと思います。
 ところがこれは戦争中からのことですけれど、振り仮名というものは醜いから、振り仮名を付けなくても読める字だけで文章を書こうと主張する人たちがいました。小説家の山本有三氏がその代表ですけれど、これはやはり日本人の国語力を考えたときに根本的に間違っていると言わざるを得ない。今の新聞はさして難解でもない漢字ですら平仮名で表記します。このいわゆる「まぜがき」こそ醜いですね。「拉致」を「ら致」とか、「覚醒剤」を「覚せい剤」といったように。新聞記事の振り仮名を頼りに漢字を覚えたというような歴史的事実を思い起こせば、それを少しでも残しておくというのが、国民全体の教育にとって大切なことでしょう。
 
 木村 振り仮名があればそれを頼りに漢字を覚えようという知的意欲も湧く。はじめから誰でも分かるように漢字は使っていないというのであれば、これは人間の知識への欲求、向上心の存在を初めから軽んじるものだという気がします。全部吸収できるかどうか分からない、全部理解できるかどうかも分からない、しかし知的なものが周囲にあふれているという状況は、実はとても幸せなことだと思います。よく「詰め込み教育」は怪しからんと言う人がいますけれど、人間はその器にあった分量をちゃんと受け入れるもので、とても受け入れられないような膨大な知識を詰め込まれて困ったということはあり得ないでしょう。
 
あらかじめ人間を見下した発想
 
 小堀 結局、そういう人たちは、人間の知識構造というか、精神構造というもののあり方をを掴んでいない。知識というものは本当に水のように@≠ムせかけて構わないのです。木村さんが今おっしゃったように、人間はみんな、自分が受け入れられる容量を素質に応じてそれぞれ持っています。その自分の升に合っただけのものを受け取るんです。
 それであとはこぼれてしまって一向に構わない。ただその升にちょうど納まるだけの量を与えてやろうとするのがいけないんです。成長期にある子供なら、多少の負荷がかかることで容量が増していく可能性は十分ある。こぼしたらこぼしたで構わない。忘れたら忘れたで構わないから、とにかく今日はこれだけのことをやろうと言って、先生が教室で子供たちに存分に知識をふりまくことが大事なんです。
 もちろんそれぞれが持って帰るものは違うでしょう。それでいいのです。つまり子供の個性というのはそういうふうにしてつくられていくもので、最初から子供に個性がある、主体性があるなどということを前提にして、それに適合した知識だけを与えてやろうなんていうことは神様だってできやしません(笑い)。
 
 木村 「ゆとり教育」というのは神の業ですね(笑い)。しかし、その神は人間をばかにしています。子供たちは喜んで漢字を覚えることができるのに、ゆとりの神≠ヘ、「いやいや、子供たちにできるわけがない」とその機会を減じる。新聞も漢字を多用しては読者が読めないと決めつける。これはもう人間をばかにした発想以外の何ものでもない。
 
 小堀 読めない子に読ませてやるのが教育です。私は『「ゆとり教育」が国を滅ぼす』の第一章に、かなり力点を置いて書いたんですけれど、子供に限らず人間すべて、教育されることの幸せを享ける権利があります。それを奪ってはいけない。子供は教育されて、そして自分の知識がだんだん広がっていくことに喜びを覚えるんですから、その喜びを負担だろうといって取り除いてしまったら、これは逆に大変残酷な仕打ちといわざるを得ないんです。
 
 木村 それを生徒指導面でいえば、叱られる幸せというのもあると思います。今の教育や躾の主流は、「叱ってはいけない。子供は褒めて大切に育てよう」というものです。しかし大人は、子供が悪いことをしたら厳しく愛情を持って叱らなければいけない。子供たちには叱ってもらう権利もあるはずです。とにかく子供を褒めようといって、いろいろ悪いことをしても、見て見ぬふりをしている親や教師たちは、子供たちの叱ってもらう権利を奪っていることに気が付かない。
 
 小堀 私も大学で講義をしておりまして、小学生や中学生を叱るように学生を叱りつけることがあります。ところが案外、反発はないんです。むしろ叱られて有り難いという微かですけれど、そういう反応があります。叱る理由は、まあ些細なことです。「おい、お前、おしゃべりやめろ。おしゃべりを続けるなら出てけ」。そういう叱り方なんです。それで憤然として席を立って出ていった学生は今まで一人もいない。
 
 木村 やっぱり子供たちには自分と関わりを持ってほしいという気持ちが基本的にあると思うんです。それは褒められることも、叱られることもそうです。先だって宮崎市で日教組の教研集会が開かれましたが、その中で「言うことを聞かない生徒に対しては、体罰も構わないからちゃんと指導して欲しい」という声が、生徒の側から少なからず寄せられるようになってきたという報告がありました。日教組の教師たちの多くが、もうガリガリの体罰絶対悪論者ですから(笑い)、逆にそういう生徒たちの要望に混乱しているようですね。
 
 小堀 体罰をどう加えるかというのはなかなか難しい問題だと思いますけれど、今の先生方の多くが恐らく団塊の世代のそのまた子供の世代でしょう。そうすると成長過程の初めから、一切暴力はいけない、殴り合いの喧嘩なんてとんでもないというような環境だったのではないですか。殴ったり殴られたりの経験がないということは加減を知らないということです。いったん体罰を加えたときに子供の鼓膜を破ったり、骨折させたりと大変な社会問題になってしまうことがあるのも、その加減を知る経験がないからです。私は、男の子は子供のときから、それこそ取っ組み合いの喧嘩をやって育ったほうがいいと思っています。それによって、これ以上やったら相手に怪我をさせてしまうという加減の程を体で覚える。今はそれがないのが問題です。
 
 木村 教師の立場で考えると、体罰の定義とその程度をきちんとわきまえる必要がある。その意味でも、やっぱり学校の体育教育の中に柔道とか剣道、空手といった格技をきちんと組み込んだほうが良いのではないかと思います。教師と生徒がともにその痛みを知りセンスを共有することができれば、これはこれで結構面白い関係になるという気がします。
 それから格技の位置付けもふくめて、そろそろ教育課程、カリキュラムを全面的に見直してもいいんじゃないかと考えています。国語・算数・理科・社会・英語という個別の枠組みではなくて、もう少しトータルに、結果的に日本とはどういう国であるかというテーマに統合されていくような教え方です。日本の国柄について学ぶような教科があっていいし、英語も単なる語学教育ではなく異文化理解のウェートを高めて、日本との歴史的関わりの中で彼らがどう日本を見てきたかという相対的な視点を与え、相互のコミュニケーションはどうあるべきかを考えさせる。国際化、情報化、経済問題などいろいろありますけれど、それらを見据えた上で、もう一度「日本人を育てる」ためのカリキュラムを考え、提言する時期に来ていると思います。
 「書道」の復権も大事なのではないかと思います。戦後、書道は必修科目から外されました。縦に連なるのが日本の文字の特徴ですけれど、その美しさや筆致に込められた意志の力を読み取る能力が今の若い日本人にどれほどあるか。たとえば特攻隊員の遺書を見ると、今の高校生とほとんど変わらぬ年の若者たちが、実に立派な文章を書いているのに驚かされます。その文字は立派な大人の文字だと思うんですね。
 
 小堀 靖国神社の遊就館に行きますと、若い特攻隊員の遺書が展示されております。一番若い人は十八、十九歳ぐらい、今でいえば未成年の勇士がみんな筆できちっと遺書を書いている。すべての字が上手だとは言いませんが、木村さんもお感じになったように、気迫のこもった、自分の短い生涯の最後の思いをこの文字に託してこの世に残していくんだという、そういう真剣さのこもった文字です。私はあそこに、真剣に生きることが即ち充実した人生なのだという、あの時代の精神が表れているという気がしています。
 
 木村 今の大人がどんな文字を書いているかというと、丸文字は論外として(笑い)、精神的に大人であることを感じさせる文字はあまりない。「文は人なり」ですから、これは日本人としていささか忸怩たるものを感じざるを得ない。日本という国の公教育の目的は、やっぱり「日本人を育てる」ことにあると思います。であるならば、武士道にも通じる格技や書道といった教科を見直すことは不可欠です。
 
 小堀 おっしゃるとおりです。私も書道が非常に大事だと思うのは、書道をやりますと漢字にせよ、平仮名にせよ、日本の字というのは上から下に書くものだという、そういう力学が文字それ自体の中に潜んでいることを会得するはずなんです。今はみんな横書きでそれが分からなくなってしまっています。
 
 木村 息がつながることが大事ですね。
 
 小堀 それが大事です。西欧近代語で言語生活を営んでいる現代の西欧の知識人はよく、「古典に帰れ」と言います。彼らにはギリシア語、ラテン語という厳密な文法と格調正しい形式性を特長とする、帰るべき古典の世界がある。では日本人が帰るべき古典は何かというと、それは漢字仮名交じり文という絶妙な書式が発明された当時の古代の文章です。日本語の基礎的な構造を考えたとき、宿命的にそこへ帰らなければ自分たちの言語生活を正しくすることができないという、そのことを気づかせてくれるのが漢文であり、法則に適った仮名遣いを保つ古文です。これを蔑ろにして日本語の世界は成り立たない。
 
歴史に連なる古典教育の充実を
 
 木村 古典教育に関して申し上げると、私は高校で古文も漢文も教えましたけれど、古文の教材を見たとき、「源氏物語」や「伊勢物語」、「徒然草」などに重点がおかれていて、それはそれで立派な作品だと思いますが、その世界を端的に言うと男女の性愛と無常観です。古典から何を学ぶかといえば、やはり若い時期は先人の生きた軌跡や人間の叡知だと思います。ところが中学高校で扱っている古典教材からはそれがなかなか学び得ない。その意味では教科書よりも一般のビジネス書の古典の方がよほど人生の勉強になっている。学校教育で教える古典教材の見直しも必要だという気がします。
 
 小堀 戦後の国語教育は、正しい国語を使うという目的から離れて、文学教育に偏り過ぎてしまったと思います。それで正しい国語を話したり書いたりする訓練が相対的に低く扱われるようになった。言葉はビジネスのための道具である、商売の用が足りさえすればよいということで、「国語における正しさ」という価値が見失われてしまった。そうすると教える側は、どうしても文学の教師になってしまうのですね。
 よく入学試験などで現存作家の文章を引いて、「この作家は何を言おうとしているか」を問う出題があるでしょう。果たしてこういう問いに正解があるものですかね。これは伝え聞いた話ですが、遠藤周作さんだったか、自分の文章が予備校の模擬試験に出されたその設問を見たら、「こんな問題には答えられない。おれだって分からないよ」と(笑い)。そういうのが現代国語なんです。私はこれまで、国立大学の入学試験問題から現代文をはずして古典だけにすべきだと機会ある毎に主張してきたんですけれども、俗にこびる世の大勢はとても動かせない。
 
 木村 確かに言葉の芸術としての文学(小説)というのは、読みの多義性≠持っていると思います。だからいくつも答えがあり得る。しかし、評論文は別で、たとえば書き手がAと思っていることは、読み手もAというふうに受けとめてほしい。そのように文章において正確な読み込みを問うことは可能だろうと思います。
 
 小堀 ただまあ、今は何を言ってるか分からない評論も少なくありませんから(笑い)。たとえば福沢諭吉だとか、もう少し遡って橋本左内の『啓発録』や二宮尊徳の語録である『二宮翁夜話』のような漢文形の勝った硬質な文章に親しんでもらいたいと思います。こうした文体に馴染んで、なれてくると、少年は必ず精神が逞しくなります。
 
 木村 今、日本の教師に尊敬する教育学者は誰かと尋ねたとすると、多くがルソーやペスタロッチをはじめ、外国の教育者の名前を挙げるでしょう。恐らく日本の教育者の名前は出てこない。なぜそうなのかというと、やはり敗戦によって歴史と伝統の連続性が断たれたことが大きい。見識人格ともに立派でありながら、占領軍によって公職追放された先生方がたくさんいます。あの当時、有為の人材を失ったのは教育界も同じです。それで戦前からの伝統を受け継ぐ先生を失った代わりに日教組が誕生したわけです。
 
 小堀 校内暴力や麻薬の蔓延、学力低下に悩んだアメリカが、一九八三年のレーガン政権のもと『危機に立つ国家』と題する報告書によって、建て直しに向かったことはよく知られていますが、そのレーガン政権の教育省長官を務め、のちのブッシュ、クリントン、そして現政権に引き継がれた教育政策を作成したウィリアム・ベネットが、教育省長官を辞めたあとの一九九三年にThe Book of Virtues≠ニいう道徳本を出版しました。八百三十二ページの大部な本ですが出版と同時に一大ベストセラーになった。そして、その内容は道徳教育の古典そのものだそうです。十の徳目(自己規律、思いやり、責任、友情、仕事・勉強、勇気、忍耐、正直、忠誠、信仰)が掲げられ、その説明とともに、それぞれに関連した寓話、エピソード、物語などが載っている。その中にはワシントンの桜の木の話もあるそうです。
 これは戦前の日本の修身の教科書とそっくりの構成内容なんですね。道徳はこうして教えるべきだという見本を示している。私は「尋常小学校」の時期の修身教科書を復刻して文庫本などの普及版をつくり、市販してもらいたい、とこれまでいくつもの出版社に訴えてきたんですが、アメリカがそれに気づいて、すでにそれと同じようなことをやっているのは大いに参考にすべきでしょう。
 
 木村 寓話や説話の持つ教育効果は高いと思います。それが戦後、あまりにもあっけなく捨てられてしまった。
 
 小堀 もちろん修身教科書だけでなく、国語の読本も戦前のものが断然優れています。木村さんがおっしゃったように、男女の間柄ばかり扱った「源氏物語」も結構ですが、「今昔物語」とか「宇治拾遺」、「古今著聞集」といったものには、今読んでもおかしくて噴きだしたくなる面白い話がたくさん含まれています。かつそれが、それこそ生きる力と知恵を授けてくれる、含蓄に富んだ人生訓になっているのです。私はそういうもので古典教育をしてもらいたいと思うんですね。それは子供に文学鑑識眼の高さを養わせます。小学校、中学校のときにそれを植えつけたら、それは生涯崩れない。
 
 木村 そうしたことに関連して申し上げると、私塾とか藩校といったものを見直してみることも大切だと思います。それらが各地方を担う人材を輩出し、結果として日本を支える力ともなってきた。この日本の伝統的教育の系譜と価値を顧みないのはとてももったいない気がします。
 
文明の作法を守る道徳の力こそが未来を拓く
 
 小堀 二十一世紀は国家間の競争がより激しくなる時代だと思います。ではいったいどのような国家がその地球規模の競争を勝ち抜いて生き残っていけるのか。私は、国民に対する教育をしっかりやった国だと思います。ではその教育体制の心棒になるものは何か。経済活動や産業を支えるための技術教育も大切ですが、やはり根幹は道徳教育以外にはないと考えます。道徳こそが英語で読んで字のごとく「力」なのです。国民各自のうちにあるその力がまた、二十一世紀の各国家が国際社会でどんな地位を占めるかということの鍵になる。私が今申し上げている道徳には、文明社会のマナーという意味もふくまれます。一例をあげれば具体的にはこういうことです。われわれ日本人は鉄道やバスが時刻表どおり運行されることを当たり前と思っていますね。まあ、全国津々浦々、どんなに中央から離れた地方でも電話一本でホテルの予約もでき、後日そのホテルに行ったらちゃんと宿泊ができる。つまり社会的に取り交わした約束がきちんと守られる国である。
 これが当たり前のこととして維持されることが、「文明の作法」であり、それが維持されている社会が「高度信頼社会」だと思います。それはいわゆる先進国でも洗練と精度においてかなりの差があります。日本は今、相当に高いレベルでそれを維持しているけれど、私はこの高度信頼社会の持つ文明のマナーをいったいいつまで守っていけるかどうかが非常に気になるんです。その水準を保ち続けていけるならば日本は大丈夫だと思うのです。
 
 木村 高度信頼社会というのは、人は一人では生きていけないという了解の中で、お互いに支え合う意識を持たない限り維持できませんね。集団主義とか揶揄されようとも、日本社会にはそれがあった。それがわれわれの力だった。
 
 小堀 いかなる個人主義者といえども、この社会で生きていくためにはさまざまな人のお陰をもって、共同体の一員としてしか生きていくことができないわけです。とすれば共同体の一員として、自分もしかるべき寄与、貢献をしなければ、寄生生物のようになって生きていくしかない。こういう文明の理法というものを叩き込むのも広義の道徳教育なんです。
 
 木村 今は個の自立とか、個の重視といった価値観が持て囃されていますけれど、結局は人生の意味や命の価値といったものも、自らの属する歴史の連続性の中でしか確認できないのだと思います。自分以外の諸々、歴史や伝統や自然といったものとの関係を無視したところで人は生きられない。
 
 小堀 封建時代という呼び方には何か見下した響きがありますが、実はそれどころではない。鎌倉時代から徳川時代にかけて八百年続いた、高度の儒教倫理に支えられ、培ってきた倫理的社会の蓄積が日本にはある。それだけ長い伝統を持っていても、しかし人間の心がけ次第で一朝にして崩れないものでもない。残念ながらその危険性はあると思います。常に繰り返し繰り返し、伝統に新たな息を入れ、新たな力を入れて再生していかなければ日本国は本当に危うい。そう考えると日本人を育てる教育の一番の根幹は伝統です。
 
 木村 伝統への回帰というのは、実は新しい適応≠フために不可欠なのだと思います。日本人としての時間軸、伝統は敗戦で断絶させられそうになった。教育にしてもそれまでは「日本人を育てる」ということを日本社会は常に意識してきたと思うんです。抽象的な人間ではなくて、日本という国の永続のために日本人を育てる。
 それがアメリカの占領政策は、そこに何か観念上想定された理想的な人間≠ニいうものを持ち込んできた。そして、その価値観に基づいて憲法や教育基本法をつくり、日本人ではない無国籍の人間を育て始めた。その流れで戦後ずっとやってきたことが、国語軽視や伝統否定につながっているのだと思います。その意味では「ゆとり教育」の背景にあるのは戦後思想そのものだという気がします。
 
 小堀 「ゆとり教育」の思想の根底には、結果の平等化を何か望ましきものと錯覚して目標にしたところがあるのです。その平等というのは下に合わせなければ実現しません。そこに生ずるのは知性の様々の局面での広汎な水準の低下、低落ですね。そうなると、どうしてもその泥沼から脱け出したいと思う意欲も人間の本性にはあります。「向上の道にいそしむ人間の霊が、悪魔にわかってたまるか」という『ファウスト』の言葉はやはり人間の本音なのです。その悪魔の役割を演じているのは今日現代の一部の文部官僚ですが、彼らは人間は安楽に暮らしたいと願うだけの存在と思っているのか、そういう境地に安住するのが人間だと思い込んでいるのじゃないか。いかに彼らが貧寒たる教育を受けてきたかがそこに暴露されているのです。
 しかし、安住を拒み上昇することを望む人間がいなくなったらどうなるか。文明の作法を維持し、高度信頼社会を守っていくのは上昇志向を身につけた人たち、いわゆるエリートです。下降志向を断ち切って目覚めた人たちはどうしたってもっと教育を受けて成長したい、自らを磨きたいと願うでしょう。「ゆとり教育」はそれに答えるどころか、逆に下降志向への誘いでしかない。つまり教育破壊を手段とした亡国の謀略なのです。このことをきちんと見極めなければ、この先の日本に待っているのは本当に衰亡だけでしょう。
 
 木村 これ以上公教育がそれに加担することだけは何としてもくい止めたい。公教育の役割は、本来、より良い国家社会の形成者を育成し、幸せな国民生活を送っていけるようにすることのはずです。その意味で公教育に携わる者は、偏差値エリートではない真のエリートを育成すること、世の中を支える大多数の善良な国民を育成すること、社会的弱者に対して手厚い教育をすることにも配慮しなければならない。為政者はその目標をしっかりと掲げるべきで、「ゆとり」などという抽象的なものであってはならない思います。
 日本のGNPが世界のトップクラスと言われていたときにも、一人当たり一時間の日本のGNPが先進国中で最低だということに気づいて、「ゆとり教育などと言っている文部省は競争相手の国からお金をもらってもいいぐらいだ」と揶揄した人がいました。労働時間の短縮と教育時間を削減が、早晩国家としての競争力を低下させることはもう十年以上前から分かっていたはずです。分かっていながらこのような政策が出てくることに、私は問題の深刻さがあると思います。
 今後ますます日本の公教育と教師たちの真価が問われてくるでしょう。「あの時代の公教育が日本を衰亡させた」と言われないように、私も全力を尽くしたい。
◇小堀 桂一郎(こぼり けいいちろう)
1933年生まれ。
東京大学大学院修了。文学博士。
東京大学教養学部教授退官後名誉教授、現在、明星大学日本文化学部教授。
◇木村 貴志(きむら たかし)
1962年生まれ。
山口大学人文学部卒業。
凸版印刷、福岡県立高校教諭を経て現在、福岡教育連盟事務局長。


 
 
 
 
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