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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2002年4月号 正論
学校で戦争はどこまで教えられるか
―平和を祈るだけではどうにもならない。戦略的発想のできる日本人を育てるために。
 
東京財団会長●日下公人(くさか・きみんど)
福岡教育連盟事務局長●木村貴志(きむら・たかし)
 
「戦争設計」のないところに戦争は起こる
 
 木村 間もなく開館予定の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の展示説明文に「誤った国策により犠牲となった多くの人々」との表記が盛り込まれることが、厚生労働省の開設準備検討会で合意されたそうです(平成十四年一月三十日付朝日新聞)。「誤った国策」という表現に象徴されるように、戦後半世紀以上を経たいまなお、「戦争は悪であり、戦前の日本は暗黒社会だった」というプロパガンダが日本全体を覆っている。特定の偏向したメディアや教科書がそれを煽っているということならばいまさら驚きもしませんが、政府の機関が主導しているとなると、もはや怒りを通り越して、脱力感すら覚えます。
 いうまでもなく、戦争は起こらないほうがいいに決まっています。世界が平和であるほうがいいに決まっている。しかし、だからといって、ただ善悪や単純な倫理観、道徳観だけで「戦争をしたことがいけない」として父祖を断罪し、後の世代に「平和を愛しましょう」と空念仏を唱えるだけでいいのか。戦後の教育現場では、まさにそのようなことが延々と行われてきたわけですが、私はそれは「教育」というものではなく、単に「戦争は悪」という一言の前に思考停止≠ェ続いてきただけではないかと思うのです。
 そうした問題意識を抱き続けてきただけに、日下さんの近著『戦争が嫌いな人のための戦争学』(PHP研究所)をわが意を得たりという気持ちで拝読しました。「国家とは何か」「紛争とは何か」「戦争とは何か」について根本的に向き合い、思考し、さまざまな戦略論を展開されている。教師の一人として、戦争について考え、教えることの難しさを常々痛感していますけれど、日下さんがそこに説かれている「戦争設計学」は、日本人だからこそ取り組むべき知の実験≠セと思いました。
 「実は、戦争設計をしたほうがかえって戦争が減る。戦争設計の中心は、自国の利益、国益である。国益を明らかにして戦争を設計することは、けっして悪いことではない。各国がエゴイズムで戦争設計をするのは、世界平和のためにひじょうにいいことである。もし、お互いの国がエゴを丸出しにすれば、相手の国益がハッキリする。相手の戦争設計が見えるわけで、次にどう出てくるか、すべて読める」というくだりは至言で、それこそは日本が世界を平和にするための「戦略的思考」でしょう。こうしたことを学校で教えられないものか、それを考えてみたいと思っています。
 
 日下 こういうことは、国家同士だけでなく身近な話でいうと分かりやすいんです。アマチュアのヘボ将棋なんかはすぐに「戦い」が起こって、どちらかがたちまち潰れてしまったりするでしょう。それは戦争設計学がなくて、先を読んでいないからなんですね。一方、プロの将棋の序盤が一見平凡な進行をたどるのは、お互いに「手を殺し合って」いるからです。歩を一つ突いたり、銀を一つ上げたり、一見何気ないことをしているようでも、何かを用心していたり、深い考えがあったりする。虚々実々の駆け引きが行われているわけで、水面下の戦いが繰り広げられている。
 剣術の達人同士の試合でも、二人が「いざ、いざ」といって刀をとって向かい合いますが、どちらからも仕掛けない。刀の切っ先が微妙に前後左右に動いてるけれど、どちらも切りつけない。そのうち片方の額からどっと汗が噴き出て、呼吸が乱れ、やがて太刀を投げ出し、「恐れ入りました。この勝負は私の負けです。遠く及ぶところではありません」ということで終わってしまったりする。これもお互いに手を殺し合っているからなんです。仕掛けるのが無理だから仕掛けない。仕掛ける勇気が出ない。さりとて向こうからも来ない。これは、まさに侵さず侵されずの理想的な国際関係です。お互いに、血を流さずに勝負がつく。
 
 木村 そのような複雑な駆け引きがあって、初めて「平和」というものが維持される。
 
 日下 そういうことです。木村さんがお嘆きのように、戦後日本の平和主義者と称する学者やマスコミは「戦争を論じること自体、軍国主義に通じる道」などと世論を誘導してきましたが、こういう人たちの考えはアマチュア将棋や子供の剣術のようなもので、かえって戦争に巻き込まれやすく、危険な考え方なんですよ。
 隣国と仲が悪くなって揉め事が起こっても、「すべて話し合いで解決すべきだし、こちらが平和に対応すれば解決できる」と思っているのがパシフィストといわれる平和主義者たちで、「戦争について考えるから戦争が起きてしまう。考えないでいれば戦争は起こらない。武器を持っていれば使いたくなるから、持たなければいい。軍隊があるから戦争が起こるのであって、軍隊を保有してはいけない」というのが彼らの主張です。
 
 木村 旧日本社会党が唱えていた「非武装中立」がまさしくそうですね。
 
 日下 社会党は自民党と連立して与党になったら「自衛隊は合憲で必要だ」に変わりましたけれどね(笑い)。ところが歴史をひもとくと、パシフィストの主張どおりにはなっていない。パシフィストがいると、むしろ戦争が起こっている。その逆の実例が東西冷戦です。いつかはやるぞと思われていたものが、米ソはとうとう衝突しなかった。キューバ危機が「戦争」にならずに「危機」に終わったのは、米ソが開戦覚悟で激しく対立したからです。
 大東亜戦争でいえば、昭和十六年十二月六日、開戦前夜のワシントンでは、「日本がアメリカに戦争を仕掛けるなど、そんな馬鹿なことはない」と全員が思っていた。一方、日本は戦争を始めるとどうなるのかという研究が不足していたので、「なんとかなるさ」とばかりに開戦した。それくらい日本人は平和的国民≠セったといえる。
 第一次世界大戦も、パシフィストのせいで起こった戦争です。第一次世界大戦はオーストリアの皇太子を暗殺したセルビアの一弾≠ナ始まったといわれていますが、そのときはその一弾で終わりだとみんなが思っていた。こんな平和なときに戦争など始まるはずがないと思って、どの国の社交界でもダンスパーティーを楽しんでいたんです。そのように緊張は何もなかったけれど、ちょっと脅してやろうと思って、オーストリアは一カ月後にセルビアに最後通牒を出した。オーストリアにしてみれば、最後通牒が受け入れられなければ戦争をする覚悟はあったんですが、実力は段違いだから相手は折れるだろうし、折れなくても局地的な戦争で終わるだろうという自信があったんです。
 ところがそれを見たロシアが、オーストリアの勝手にはさせないということで、動員令を発した。それを見て警戒したドイツやフランスも動員令をかけたものだから、みるみるうちに軍隊が集まってきて、世界大戦へと発展してしまったわけです。でも、ロシア、ドイツ、フランスは、「まさか欧州で大戦争が勃発するわけがない」と思って動員令を出したんですよ。
 
 木村 平和に浸って、戦争設計をしていないときのほうが戦争が起きやすいという歴史の教訓ですね。
 
教育から「悪」の要素を切り捨てるな
 
 日下 ところで、木村さんが教師の鍛錬と向上の場として設立された「師範塾」では、「戦争をどのように教えるか」というようなテーマはあるんですか。
 
 木村 塾長である高橋史朗先生(明星大学教授)に、戦後教育の問題として、アメリカによる占領政策を中心にご講義をいただいています。やはり占領政策について学んでいなければ、今日の教育界の姿を正しく見ることはできませんから。日下さんの近著を拝読し、お話をうかがって感じるのは、日下さんのような方にも講義をしていただければ、「悪」というものをわきまえた、綺麗事や偽善に汚染≠ウれることのない、本当に逞しい教師が養成されるに違いないということです。
 日下さんは常々、日本は並外れて道義と善意にあふれた国だと指摘されておられます。そういう要素はもちろん大事だとは思うのですけれど、そうでない要素を――たとえば戦略的思考など――、日本人が兼ね備えることもまたきわめて重要です。これは教師に限ったことではないのでしょうが、日本人の中から「戦い」とは何かという死活的な問題意識が失せているのではないかと思います。
 
 日下 そういう点でいうと、先日、政府関係者に呼ばれて話をする機会があったが、彼らの話を聞いていると、「戦う」という気概が根本にない、すっぽりと抜けていると実感した。こういうこともああいうこともあり得ると理屈だけはぺらぺら並べるけれど、「それで、本当に戦争が起こったらどうするんですか」と尋ねると、返ってくる答えが「それは、またそのときに考える」なんですよね(笑い)。
 その瞬間、思ったんです。私たちの頃は中学生になると剣道か柔道を正課、つまり必須科目として選ばせられたんですが、彼らは違う。親が買ってくれた剣道具とか柔道衣を嫌々身につけて、見るからにそれらしき先生が現れて、バシバシやられる。当然、何でこんな殺伐としたことをやらされるんだと思うやつもいれば、面白くて仕方がないと思うやつもいる。
 どちらにせよ正課であるという重みを感じて、人間は生きていくためには戦わねばならないという覚悟ができる。戦うとなれば、相手の隙を突く。また、相手に隙をつくらせるように策略を練るようになる。要するに、騙し合いですね。それこそ、ずる賢くなる(笑い)。
 それが正課から外されて部活動に任されたのは、自由、民主主義、人権と個性尊重の世の中だから仕方がない気もするが、先ほど話に出た政府関係者のことを考えると、やはり必修科目でやらせたほうがいいんじゃないですかね。戦争をいかに教えるかといったら、そうした体験を身近にしておくことが先決です。国家を担う人であれば、なおさらです。
 
 木村 いまのお話をうかがいながら、オーストラリアにお住まいの林秀彦さん(作家・脚本家)が「アングロ・サクソン民族の博打はポーカーだ。日本は丁か半かで、裏をかくことを教えていない。これでは戦えない」とおっしゃっていたのを思い出しました。
 
 日下 日本人は心理戦に弱いからね。
 
 木村 教育界のなかでも、情報戦を展開しなければならない場面があります。誤解を恐れずに言えば、ある種の悪党を育てていかなければいけないと思っています。いま日本は譲歩することしか考えられない善人ばかり育てています。
 
 日下 格闘技を体験させて、戦い、騙し合うことを教えたら、次には勝った場合のことを教えるべきです。人間は勝負事にせよ、戦争にせよ、勝った場合は嬉しくてやめられなくなる。すると調子に乗って、どこかでドスンと落ちるまでやる。それで反省するが、しかし五十年ぐらいたつとまた忘れて同じことをやりだす、といった歴史を教えてほしい。日本も、「平和の誓い」なんていくら言ったって、五、六十年すればまたやりだすんです。誓ったところでそうした現実が迫ってきたらだめなのだから。
 むしろ肝要なのは、相手に嵌められたときにカッとなってはいけないということです。北方領土や尖閣列島で相手の策略に嵌められたからといってカッとなるのではなく、「どうすれば相手が領土を手放すか、隙をつくるかを考えなさい」と教えなければいけない。
 
 木村 その意味では、もっとしたたかさを身につけられるように、学校で博打のやり方を教える必要があるかもしれません(笑い)。
 
 日下 マネーゲームを実際にやらせてみるのも一つの手かもしれない。たとえばアメリカの高等学校では、以前から、生徒一人ひとりに決済させて海外通貨の売り買いをするシミュレーションを授業に取り入れているところがあります。A君は円をいくら買いました、B君はドルをいくら売りました、と黒板に書いていく。そして一カ月後に、誰が得をして誰が損をしたかという損益の結果を出す。その際、「ユーロが上がりました。円も上がりました。すると、ドルは下がったということになります」といった具合に説明し、ドルが下がった影響を順序立てて教える。
 「ドルが下がってアメリカで得をしたのはどの産業ですか」
 「アメリカの旧い産業が得をして、新しい産業が損をしています」
 「ブッシュ大統領は旧い産業の肩を持って、ドルの切り下げをしました。また、日本の鉄鋼産業を叩いて、アメリカに輸出できないようにしています。それはなぜでしょうか」
 「それは、自国の鉄鋼産業がなくなると戦争に弱くなってしまうからです」等々、このような順番で教えれば生徒はついてくるし、国策・国家戦略の何たるかについても関心を示すようになる。
 
 木村 そうですね。そういう教え方は日本にはありませんから、今後取り入れていかなければならない教え方だと思います。しかし、アメリカのように小さな頃から健全なナショナリズムが植えつけられる国ならば、そうした教育が効果的に機能するのでしょうが、占領政策の後遺症と左翼偏向教育で骨抜きにされている日本人の場合はどうなのでしょう。
 
 日下 それも見方によると思いますね。このごろ急速に変わったと思うのは、例の東シナ海で発生した不審船騒動で、海上保安庁の巡視船が不審船を追跡して撃沈≠オたことについて、調査対象は社会人ですけれど、八割が「よいと思う」と答えている。三年ほど前に能登半島沖で起きた不審船事件では多くの人が穏やかにことを収めたいと思っていた。それが度重なって目に余るようになると、今回の調査結果のように「よくやった」という気持ちに変わる。それが普通だと思います。
 平和の誓い≠唱えている人は、その誓いを守り通すがよろしい。国民の意識が変わり、「平和主義の先生はクビだ」という世の中になっても、その先生は喜んでクビになることと私は信じています。誓いとは、そういうものですからね(笑い)。
 
 木村 大阪の池田小学校に触法精神障害者が乱入して子供たちを殺害した事件が昨年起こりました。あのときに私が思ったのは、日頃、「平和、平和」と念仏のように唱えていれば平和が到来すると思っている人間は、あのような暴力に直面したときにどうするのか。そこで戦い、子供たちを守る力がないと、どうしようもない。それ以前に、あのような凶悪な人間が出てこないようにするためにはどうするのか。
 
 日下 あれこれ理屈が言われていますが、ああいうときは教師は覚悟を決めて、座布団一枚でもあればそれを持って犯人に体当たりすればいいんです。技なんて何もいらない。いきなりぶつかるのがいいんです。後ろからぶつかればなおいいんですけれどね。結局、恐怖心が先立って背中を見せるから突かれてしまうんです。
 
公教育再生の条件は自然淘汰
 
 木村 昭和五十二年の新聞記事が先日たまたま出てきたんですが、当時、福岡市のある中学校に包丁を持った男が侵入するという事件がありました。それで対応した校長や教師がどうしたかというと、何と犯人を説得してしまっている。
 
 日下 説得できたことは立派ですね。最近は説得を聞かない人間が増えていますから、その場合が心配です。これは渡部昇一さんからうかがった話ですが、地主のお嬢さんでものすごく威張り散らす人がいたらしい。そのお嬢さんがある日、自分のところの女中さんを殴りつけて怪我をさせたんですが、その女中さんが耐えかねて巡査を呼んだところ、お嬢さんはペッチャンコになって、以後、まったく静かになったという。自分より強い者が出てくると急におとなしくなってしまった。
 そういう意味で、学校も日教組の先生に対して、もっとガーンと制裁しなければいけないんでしょうね。どうすれば一番ガーンと響くかはいろいろあるが、一番穏やかな方法は、子供がいなくなって、学校の存立そのものが危うくなって、組合の組織率が低下することでしょう。
 
 木村 組織率は減っていますが、まだ最大勢力ですからね。教師が百万人いて、その三割にあたる三十万人近くが日教組に加盟していますから。
 
 日下 みんな組合費を払って組合員になっているわけですね。
 
 木村 ええ。年間予算が一体いくらあるんだろうと思います。一人当たり毎月五千円の組合費としても、年間で百八十億円ですから。
 
 日下 子供の数が減ってきても、先生たちはリストラされるとは思っていないんですか?
 
 木村 リストラされるとはまったく思っていないようですね。もちろん、いま子供の数が減ってきていますから、学校の統廃合や見直しが進むにしたがって、転勤は余儀なくされるかもしれませんが、クビになることはあるまい、と高を括っています。いまは定年後の再雇用みたいな制度も導入されていますから、公務員は手厚く保護されているなとつくづく感じます。それならば余計に一生懸命頑張らなければならないはずなんですが、システムに胡座をかいてサボりまくる人がたくさんいるから困ったものです。だから現状を変えようと思えば、どうしても正当な評価システムがいるんです。
 
 日下 かつて、学生運動に身を投じていたために普通の民間企業を受けたらみんな落ちてしまった連中がいて、それが公務員、教職員になりました。彼らは闘争心と名誉心が強いから、やたら校長に楯突く。「少しは心を入れ替えて働いたらどうだ」と注意すると、「国家、体制に抗うことに私は一生を捧げる」なんていう。
 先生方に生まれ変わってもらわなければいけないわけですけれど、木村さんのお話をうかがっていると、なかなか難しい感がある。こういう問題については、経済学でいうところの自然淘汰に任せるしかない。経営が不安定なので「立て直せ」と注意しても、なかなか持ち直さない銀行がある。お客が来なくなって自然に潰れてしまう。実際、この頃は銀行に預けなくなる人が増えていますからね。人々が現金で持つようになったり、金を買うようになったりして、銀行業全体が社会から見捨てられるわけです。
 それと同様に、公教育全体が社会から見捨てられるというのは、実は賢明な動きだと私は思います。そうなれば日教組の教員であれ、国立大学の教員であれ、愕然とするわけです。自分はいいことを教えているつもりでも、生徒が誰も来なければ仕方がない。そういう動きはもう始まっている。
 それをもう少し穏やかにいえば、「小学校の授業は午前中で終わりにして、午後は帰してしまいなさい。大学もレジャーランドになって、授業に学生がさっぱり来ないが、それは大変よいことである」となる。
 いい教員の授業は放っておいてもちゃんと満員になります。大学にしても、その大学を出れば一流の××になれますとなれば学生は来る。それが専門学校で、大学が専門学校に負けるのは当たり前なんです。
 というような意味で、「改革、改革」という言葉を聞いていると、それはおおかた日教組改革とか文科省改革論なんでしょうけれど、丸ごと見捨てられるほうが根源的な改革だと思うのです。それがあって初めて、部分的な改革も始まる。
 
集団公教育の効果とは何か
 
 木村 たしかにおっしゃるとおりなんですが、教育現場にいる私としては、やはり教育界のほうから自発的に立ち直っていかねばという思いが強烈にあります。見捨てられない教師づくり、学校づくりを本気でやりたい。しかも公教育の場でそれをやらなければならないと思っています。
 
 日下 そうですね。集団公教育の効果は、その先生の気合が生徒に伝わるということです。もう一つは、みんなで見聞をともにしたという思い出がある。情報の共有化という力がある。たとえば私は昭和五年生まれですが、同じ年生まれの人だと小学校の教えを引用すればすぐ通じる。岡崎久彦氏のようなケンブリッジ大学出の秀才と話しても、「あの歌にあったじゃないか」といえば、一番、二番、三番と歌える。
 そういう点からいうと、アメリカの大学教育は学生が寄せ集めだから、分かり切ったことを縷々説明しなければならない。馬鹿馬鹿しいことを順序立てて教えていかなければならないから、ハーバード大学の教授はくたびれると思いますね。
 その意味で、小学校のときに情報を共有し、日本人ならみんなこれを知っているはずだというのは自信を生むんです。とくに小学校ではそれが最も大切でしょう。近頃、「個性ある教育」と盛んに言われますけれど、そんなものはあとにしてくれといいたい。小学校はまず絶対画一教育。その画一化教育を早く済ませるのが教育の生産性。
 教育勅語は天皇からいわれたくないという理由で否定されたが、徳目を列挙して暗記させるのは効果的だった。しかも中身は国家主義でなく、家族や社会の倫理だったから誰も反対しなかった。あれが集団公教育の使命と生産性です。
 
 木村 おっしゃるとおりで、みんな「個性」という言葉に縛られて、単なる自由放任にしてしまっています。個性というのは、まず画一的に強制され、教え込まれたものの中から突き破って出てくるのが本物だと思います。「ゆとり」や「放任」といった緩い土壌から出てくるものは所詮我がままの類いであって、個性でも何でもない。
 
 日下 「子供の人格を尊重した」「一人前に扱ってくれた」というのが思い出深い先生の条件という人がいますが、そう語る人は特別にできがよかったんじゃないですか(笑い)。でも、その人だってぶん殴られたことはあるはずで、それを言わないだけです。はっきり言えば、十七歳以下の子供は半ば動物みたいなものですから、怒ったり、叱ったり、殴ったりしなければダメなんです。
 
 木村 そういうことをやらずに、親も教師も「個性」や「自由」という観念に逃げ込んで、子供たちを野放しにしているから、ホームレスを殺害するような中学生が出現する。
 
 日下 そう。倫理の基本を誰が教えるかなんです。いまの学校だと先生が教えないわけですから、親がやらなきゃならない。「学校にお願いします」という親ばかりなら、学校の先生の入れ替えをしなければいけません。殴れる先生を募集するとか(笑い)。
 
教師自身がマネジメント能力を持て
 
 木村 学校づくり、教師づくりということで付言すると、学校教育のコンサルティングのようなことができる人間が必要だろうという思いが私にはあります。学校という組織をどうすればいいか。たとえば教員の評価の問題、研修の問題、お金の問題などをどのように組み立てていけば学校組織がうまく機能するのか、全体のマネジメントができる人間のことです。
 そういう発想が従来の教育現場にはないので、新しい概念を誰かが持ち込んでいかないと変わらないと思うんです。学校の管理職で、たとえばうちの学校の年間予算はいくら、光熱費がいくらかかっている、体育祭をすると予算がこれだけかかるとか、そういう細かい数字が頭にある教師は、ほとんどいないのじゃないかと思います。教師としてそこまでやる必要はあるのかという懐疑も恐らくあるでしょうけれど、個々の教師が生かされていくためには、そういう感覚も一方になければならないと思うんです。
 あとは自分たちが教育したことが、たとえば、子供の十年、二十年先の姿を考えたときに、どのように生きているのかということ、これはなかなか効果測定はしにくいでしょうけれど、それでもある程度やろうとする努力が必要です。やったらやりっぱなしで、いまやっている教育が果たしていいのか悪いのかという検証がほとんどなされていない。検証がなされないままに、改善はないわけではないけれども、そのときのムードとか、空気とか、極めて曖昧で抽象的な「個性が大事だ、ゆとりが必要だ」といったスローガンによって、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。それを改善するためにも、コンサルティングがやれる人、全体のマネジメントが分かる人が学校の中に必要だなとつくづく思っています。
 たとえば教育正常化がうまく進んでいくときの条件として、教師の魂を持った人間が教育行政の主要ポストに就くということが挙げられると思います。法律を机上の空論でいうのではなく、教師としての思いがあったうえで、その法律を運用するから、いい方向に捌いていけるわけです。
 
 日下 教師が自分の責任でやるわけですね。
 
 木村 ええ。教育を論じていくうえで最大の盲点というのは、誰もが学校教育を一度は生徒として通過している。だから学校教育を理解しているという前提で話をしているけれど、教員集団の中に入ってみないと見えてこないものが、実はたくさんあるんです。先ほどから申し上げているように、人事の問題、給与の問題、特別昇給等々、細かい話がたくさんありますけれど、そういったことを改革するために、学校外のいろいろな知恵を持った人間がいま必要だということを痛烈に感じています。
 
 日下 アメリカだと教育省はありますけれど、予算を多少配分するぐらいで、日本の文科省のような役所はありません。基本的に教育は地元の教育委員会のものなんです。政治的なテーマがないとき大統領や副大統領は、「教育改革」を言い出したりするわけですが、その内容を聞いてみると、各州に一つずつ進学校をつくろうとか、モデル校をつくろうという。それは上を引っ張り上げようという話で、下のほうは地域に任せている。各地域の教育委員会では、教育コストを安く上げるにはどうすればいいかということが綱領の中に入っていて、たとえば社会人を教員に使って、正規の教員を雇わずに済ませる。どんな社会人かというと、軍隊上がりと牧師がよい。民間人は儲けることばかり教えようとするからダメらしい(笑い)。
 
 木村 私も民間出身の人間ですが、逆に外部の人を直接教壇に立たせるというよりも、教育現場の人間が外部の人間から、さまざまなことを学ぶべきだと思っているんです。しかし、その一方で社会人経験者が非常勤で教壇に立ったりすることに対して、「私たちのほうが教育についてはプロだ」という誇りに基づいた言葉がなぜ出てこないのか。なぜ先生たちは悔しさを感じないのかとも思うのです。「学校経営について君たちは何も分かっていないから、外部企業の課長を校長として招請しました」と言われたときに、「冗談ではない。学校経営についても自分たちのほうが知っている」と、なぜ言い返すだけの力をつけようと努力しないのか。
 いま教師が民間企業に行って何ヵ月か研修を受けるという制度があります。ではその逆はあるか。企業の人間が学校に研修に来て、「さすが教育のプロだ。教育のプロがやっていることは企業教育でも使える」ということは残念ながら皆無でしょう。これは教師には世間で通用する力がないと言われているのも同然で、教育論といいながら、教師たちの口にするそれは、一般企業や世間で通用するものかどうかという自戒がどうしても必要になる。
 企業教育というのは、社員の働く意欲を高めることに主眼がおかれています。学校教育も、実は児童生徒の学習意欲をどう高めるかという問題が最も肝心なのだと思います。学力向上であれ何であれ、その意欲の有無がすべての始まりです。とすれば教師にそういう能力があるか、あるいはそういうエンカレッジ(鼓舞)するシステムに現場がなっているかどうかを見直す必要がある。
 
 日下 いまの先生は、子供たちをエンカレッジできないようですね。身分保障されているのが一番いけません。自分自身をエンカレッジする必要がないんですから。
 
 木村 身銭を切って学ぶという感覚が教師たちにない。「師範塾」は、学校の休日にお金を払って勉強に来なさいという仕組みなんですけれど(笑い)、志があって来てくれる先生方にしてから最初は結構戸惑いがあるようです。でも受講しているうちに、そのくらいの負担は安いものだというふうに変わってきてくれていますが。
 いずれにしても自分の教育哲学を確固たるものにしながら、子供たちに伝えるスキル(技能)も身につけていく。そのために自分は自分に対して投資をするのだという感覚が必要だと思います。自ら向上しなくて子供たちの向上をエンカレッジすることはできない。
 ここでシステムの話に関連づけると、そうやって自助努力している教師、あるいは受け持ちクラスを持っている教師に対しては、何らかの手当をつけてやって欲しいと思うんです。担任手当なんかはすぐできることです。クラス担任になれば、教科担任と比べて仕事が格段に増えます。欠席がちの子がいれば家庭と連絡を取り合ったり、朝夕ホームルームで生徒指導したり、クラス四十人の生徒に対しての責任の重さは副担任とは歴然と違います。担任手当の制度は、福岡県だといくつかの私立高校にはありますけれど、公立にはないんです。教員相互の「平等に反するから」ということで一切支給されない。
 
「生きた社会」を学ばせよ
 
 日下 かつては担任になると付け届けがもらえたものですけどね(笑い)。資産家は付け届けするものだと決まっていた。あるいはご不幸があったときには誰かがたくさん出すとか、そういう言わず語らずの共同体意識が昔はあったのを、一律の法律や制度にして壊してしまった。もう一回、それを戻してはどうでしょうか。
 
 木村 一度制度をつくってしまうと、それが独り歩きしてしまうことがたしかにあります。本来、法律とか制度は、人間がいかにうまくやっていくかということが目的なのに、主客転倒しているような感じがあります。平等の名の下に導入された、一見良識的な制度によって、義理人情が抹殺されたことも案外多いのではないでしょうか。
 
 日下 私が長年言ってることですけれど、とにかく大減税をすべきです。大減税してしまえば、民間に金持ち、資産家が生まれる。必然的に貧富の差も生まれる。それから公共団体が貧乏になりますから、いろいろな手当を出せなくなる。私は戦前の日本を知っていますが、そのときは資産家がちゃんとお金を出すでしょう。先生方が「これは必要だ」と思ったときは資産家の家を回って歩いたものです。
 先生がお金を集めて歩いたって、卑しいとは誰も思わなかった。子供のため、職務のために集めているから尊いことだとみんなが理解していたから、お金がある人はあるだけ出したんです。当時はお互いに生活程度が分かっていましたから。「校納日」なんていう言葉があって、先生が「明日は校納日です。校納金を持ってきてください」と言うわけです。当時の私は何のことだかさっぱり分からなかったけれど、学校に納める金のことなんです。「持ってくるのを忘れた」という子もいたが、本当に忘れたわけじゃない。家にお金がなかったんだということは後から分かりました。
 あれで私は日本という国を知った。そういう子供が、戦争が始まったときは元気になった。「自分も日本人だ。戦争に行けば国のお役に立ってみせる」という気持ちです。国家の危機は、一人ひとりにプライドを持たせたという意味ではよかったと思っています。
 
 木村 貧富の差はあっても、学校も、学級も崩壊していなかった。教師も親も子供たちも、経済的繁栄の時代を過ごしているうちに、貧しさの中にあった人としての向上心や、真面目な意欲を、いつの間にか忘れてしまったんですね。
 
 日下 貧富や能力を乗り越えていかに暮らすかという試練があったんです。生きた社会を学ぶというのは、そういうことじゃないでしょうか。九月十一日以降、アメリカには「ニューヒーロー」が誕生したそうです。それは消防・警察・軍隊の人で、つまり「共同体精神」の復活です。「個性」や「ゆとり」や「経済成長」はそのあとに咲く花です。
◇日下公人(くさか きみんど)
1930年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
日本長期信用銀行取締役、ソフト化経済センター理事長を経て、現在、東京財団会長。
◇木村 貴志(きむら たかし)
1962年生まれ。
山口大学人文学部卒業。
凸版印刷、福岡県立高校教諭を経て現在、福岡教育連盟事務局長。


 
 
 
 
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