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1996/11/22 産経新聞朝刊
【正論】元駐タイ大使 岡崎久彦 知的退廃を示す慰安婦問題
 
◆会津若松城落城図に思う
 全国の温泉地などを旅行された方は御存じと思うが、各所で、日本古来の性的器具や、絵画などを展示した観光用の寺がある。もちろん未成年者は入場禁止であろう。そういうある寺で、私は、会津若松城落城の際に、薩長の兵隊が会津の士族の婦女を凌辱、暴行している情景を細かく描いた大幅の絵図を見た事がある。
 もちろん絵描きの作品であるから、誇張もあろうし、猟奇趣味に訴える意図もあろう。しかし、その裏には史実がある事も確かであろう。どこの落城でも多かれ少なかれそのような事は必ずあったであろうし、とくに会津若松の場合は、薩長の兵隊の暴行には、今に至るまで怨念が残っていると聞く。
 問題は、もし会津若松市が、鹿児島県と山口県に対して、この絵図を中学校の教科書に載せるように要求したらどうなるかである。そして更に、鹿児島県と山口県がその要求を受け容れた場合、それで教育される中学生が自分達の父祖、郷土の先人達について、更に、人間性全般について、どんな影響を受けるかという事である。
 その場合、誰でもが思わず口に出す事は、会津若松の要求については、「何もそこまで言う事はないではないか」ということであり、両県の側についても、「そこまでする事はないだろう」と言う事であろう。つまり人間のする事として非常識だという事である。
 
◆「まとも」である事が基本
 現在問題となっている中学教科書の慰安婦問題も同じような問題を含んでいる。
 もちろんその基本であるべき事実認定についてもずい分あやしげなものがあるようである。事の経緯を第三者的に観察しているだけでも、強制連行の有無などは、事実の認定はあいまいにして、確証は遂に見つからないまま、「何も認めないのではこの際おさまらないのではないか」というような、迎合的な−−といっても何に迎合しているのかもはっきりしないムード的な迎合主義−−議論で、事態がここまで押し流されている感がある。戦後日本の知的頽廃の一つの典型的な例であろう。
 しかし、問題はそれ以前の常識の問題である。
 英語にディースント(decent)という言葉がある。字引きには、上品というような訳が載っている。ある通訳の専門家は、英語の飜訳でこの言葉が一ばん難しいと言っていた。私も英語と接触したはじめの頃は、この言葉の用法にはとまどいを感じたが、今は、こんな簡単な言葉はないと思っている。すべて、「まとも」という日本語に訳しさえすればほとんど間違えない。「もう少しディースントな」と言ってから、「服装をしたら…」とか「英語を話せば…」と言う場合、「まともな」と訳せばそれでぴったりである。ディースントな人物といえば、人に嘘をついたり近所迷惑をかけない、教育や家庭の場に露骨なセックスの話など持ち込まない、下品な言葉づかいをして話し相手を不愉快にさせない「まともな人」の事である。
 
◆責任を問われる文部行政
 社会人としてのミニマムな基本的価値は「まともな人間」である事である。その上に「立派な人間」ならばもっと良い。
 しかし、マルクス主義教育はそれを根底から覆した。人間の価値を階級の敵であるか味方であるかだけで区別し、階級の敵に対する罵詈の口汚さは耳を蔽わせるものがあった。
 日本の戦後の日教組教育となると、歴史上の人間の価値を、権力に抵抗したかどうか、戦争に反対したかどうかだけで決めてしまう。西郷隆盛は征韓論を唱えた悪い人であり、西郷を弁護する側は、実は西郷は平和的意図だったという事を立証しようとする。西郷という完成された人格、勝海舟に言わせれば一個の高士はどこかに行ってしまった。
 慰安婦問題の背景にはこうした戦後教育がある。戦争の悪を表現するかどうかだけが善悪の基準になっていて、その方法が人間としてまともな事か、常識的な事かの判断が見落とされているのである。九十代から上の世代の人が健在ならば、「教科書に載せるべき性質のものでない」と一言大雷が落ちる所であるが、もうそういう人達は暁天の星の如く少ない。
 聞く所によると慰安婦の記述のある教科書はまだ確定したわけではなく、十二月中に文部省が介入しない場合はじめて確定する由である。
 私はこの記述は長くはもたないと思っている。今はほとんどの人が気付いていないが、実際に全国でこれが使われると、父兄の間から、「これはひどい」という反応が圧倒的多数になると思う。その場合今の文部行政がこれを黙認した責任は当然問われよう。
 今の総理、文部大臣、文部当局は、あと一か月の間に、この責任を将来にわたってになうかどうかを決めなければならない。おどかすわけではないが、警告は必要であろう。時流や世論はどう変わるかわからない。国民の多数が「あまりにひどい」と認めれば、この一か月に在職した責任者達は、政治家、役人としての資質、責任感についての評価に大きな打撃を受ける可能性なしとしない。
 そして、その時々の毀誉褒貶よりも、もっと大事な事は、人間として非常識なものは、断固排除するというだけの見識と決断力を持つという事であろう。(おかざき ひさひこ)
◇岡崎 久彦(おかざき ひさひこ)
1930年生まれ。
東京大学法学部中退。英ケンブリッジ大学大学院修了。
東大在学中に外交官試験合格、外務省入省。情報調査局長、サウジアラビア大使、タイ大使を歴任。
現在、岡崎研究所所長。


 
 
 
 
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