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1995/08/30 読売新聞朝刊
[戦後教育は変わるのか]日教組の路線転換(4)精彩を欠く「教研」(連載)
 
◆教えるプロへ問われる真価
 「中二の男の子が『先生は信用できない』と言います。きょうも、先生たちの発言は行政批判ばかり」
 今年一月二十八日、長崎市で開かれた日教組の教育研究全国集会(教研集会)の「いじめ特別分科会」。
 約三時間に及ぶ討議の終わりごろに飛び出した会場からの保護者の発言に、会場は一瞬、静まり返った。
 前年十一月には、愛知県で中学二年生の大河内清輝君(当時十三歳)がいじめを苦に自殺した事件が起きたばかり。特別分科会は「教育に携わる者として、その責任を重く受け止めたい」(横山英一委員長)という問題意識から急ぎ設置されたものだった。
 しかし出席した教師の発言には問題の核心から、かけ離れたものが目立った。
 「教師はくたくたに疲れているというのが実態」「今の体制は忙し過ぎる。子供にエネルギーを注げるような施策が欲しい」
 その日、小、中学時代のいじめ被害の体験を会場で語った女子大生(19)は「他人に責任を押し付けているという感じがして仕方がなかった」と振り返っている。
 一九五一年(昭和二十六)に教師の研究活動の発表の場として始まった教研集会。政治・経済闘争一本やりの活動への反省から、「よい組合員は、よい教師でなければならない」としてスタートしたとされる。
 日々の暮らしを作文で描く「生活つづり方教育」、小学校の算数で、可能な限り暗算を使わないで十をひとまとまりにした筆算を中心に体系的に教える「水道方式」。組合員の教育実践によって積み上げられた成果の数々が、全国の学校に発信されていった。
 第一回から、教研集会を見つめてきた大田尭・東大名誉教授は「文部省の学習指導要領に縛られることなく、教師が授業内容を練り上げていく自主編成運動の一つの柱だった」という。
 その「教研」が、かつての勢いを失った。社会問題化して久しい「いじめ」をまとまった形で取り上げたのがようやく今年で、しかもそこで保護者の心をとらえ切れなかったことが、そのことを象徴している。
 参加する教師たちが提出する研究リポートの数は、大きくは変わっていない。が、「水道方式」の指導者として知られ、六七年から教研集会に参加し続けてきた明治大学の銀林浩教授は「全国教研に出される研究リポートからみて、県レベルでは残念ながら数合わせのようなリポートがないとはいえない」と語る。「全国に波及するような実践事例が現れない」という声は日教組幹部の間からも漏れ始めている。
 教員による自主的な教育研究活動が沈滞しているわけではない。
 東京都内の区立小学校に籍を置く向山洋一教諭(51)は、授業に役立つ教育実践を発掘して教師同士がその共有化を目指す「教育技術法則化運動」を始めた。八四年に研究会が出来て以降、急速に会員数を増やし、現在は約六千人。機関誌「教室ツーウエイ」の実売数は二万部近い。
 また埼玉県の公立中学の現職教師たちを中心とする「プロ教師の会」は、放置すればすぐに秩序を失う教室を巡ってユニークな教育論を展開。メンバーらによる「ザ・中学教師」(別冊宝島)は八七年に発刊され、十二万部のロングセラーになった。
 向山教諭は組合員、「プロ教師の会」にも組合員が多い。しかし、いずれの活動も「教研」とは別の土俵で展開されてきた。
 日教組の教育研究活動について、向山教諭は「理念が優先し過ぎる。『役に立つか』という視点で見直すべきだ」と語り、「プロ教師の会」のリーダーの一人、河上亮一教諭(52)も「イデオロギーで済むなら、そんな楽なことはない」という。
 文部省との対立の構図が崩れ、日教組は、〈教えるプロの集団〉としての側面がかつてないほどクローズアップされることになる。
 向山教諭は、八三年から四年間日教組のトップにあった田中一郎元委員長と会談した際のことを忘れない。「このままだと日教組は存在意義を失って、五年でなくなる」とする向山教諭に、田中元委員長は「いや三年だ」と応じた。
 九二年十一月のことだった。今その「三年」になろうとしている。

 
 
 
 
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